第19話 新たな感情の芽生え
食後と言えばコーヒーだよな、やっぱり。
体に良くないみたいな説を聞いたことがあるけど、そんなの知ったこっちゃねえ。
野菜だろうが肉だろうがなんだろうが、体に良い説と悪い説、両方あるもんだよ。
とにかく、ドクターストップがかからない限りは、食後にコーヒーを嗜むっていうルーティンは崩したくない……のだが。
「ほぉら、ゆっくり飲みましょうねぇ」
自称ママが、食後の粉ミルクを飲ませようとしてくるんだよ。
抱きかかえられるのも恥ずかしいけど、哺乳瓶で粉ミルクも相当恥ずかしい。
実のママが見てる前で、自称ママと赤ちゃんプレイだぜ? 妹と同級生二人も見てるし、泣きそう。
でもここで泣いたら、あやされるの確定だし……。
「委員長、俺もうお腹が……」
「ママ」
「……ママ、ボクもう、ぽんぽんいっぱいだよ」
「あらあらあら、ごめんなさいねぇ」
ただただ辛い。
とかく辛い目に遭う。
「ダメダメなママでごめんなさいねぇ」
哺乳瓶片手に本気で落ち込むのやめてくれん? 情緒がおかしくなるから。
罪悪感を抱くべきか、警戒心を抱くべきか、わかんなくなるから。
「お兄ちゃん! ママを困らせちゃダメだよ!」
最愛の妹が敵に回る日が来るなんてな。
思春期とか反抗期で敵対するとかは、ままあることなんだろうけど、ママのせいでこうなるなんて思いもよらない。ままならないね。
「そうよね……粉ミルクなんて愛がないわよね……小五郎ちゃんが母乳を欲しているのに、一滴も出せない自分が情けなくて情けなくて辛いわ。ママはどうしたらいいのかしら? 再び小五郎ちゃんを妊娠して、母乳が出る体になるしかないのかしら?」
家族の前でお経はやめない? 内容もかなりヤバめだし。
なんだよ、再び俺を妊娠って。一度目があったみたいな言い方するな。もし仮に一度目があったとしても、二度目は絶対にないんだよ。
クソ、俺はどうすれば……ん? なんだ?
母さんは何を書いてるんだ? カンペ?
……『乳を吸え』じゃねえよ! 救いの手、蜘蛛の糸だと思った息子の純情を返せよ! 人を信じる心を返せよ!
「私は小五郎ちゃんのママになれないのかしら……」
そうだよ、なれないんだよ。よくわかってるじゃねえか。
落ち込むことじゃないんだよ。あるべき姿、立ち位置に戻ろうとしてるってだけの話なんだよ。
「男の子ってのは、ほっといても育つのよね。小五郎ちゃんを産んだその時から、この日が来ることを覚悟していたわ。まだ愛を与え切っていないのだけれど、そんなことは、小五郎ちゃんの知ったことじゃないわよね。ママのおっぱいを求めていた小五郎ちゃんは、いつしか他の女の子のおっぱいを求めるようになる。最初から、わかっていたはずなのに……避けようのないことだってわかっていたはずなのに……うん、そうよね。ママのこういうところが嫌いなのよね。母乳の一滴も出せない女が、いつまでも母親面するなんて、息子にとっては耐えがたいことよね。ねぇ? せめてこの手を握り返してくれないかしら? あの日の時のように……『ママは僕が守ってあげる』と、眩しい笑顔で言ってくれたあの時のように……ううん、もう覚えてないわよね。いいの、成長するってのはそういうことだから……。アハハ、ダメね。私って本当にダメね。我が子の成長を哀しむなんて……寂しく思うなんて……。誰よりも喜ばなきゃいけない立場なのに、自分の気持ちばっかり優先してる。そういうところが嫌われるってわかってるのに……」
なんだろ、同じ様なことを延々と繰り返してない?
架空の思い出についてはあえて触れないけど、変にリアルなんだよな。
自然な流れ、抗いようのない運命みたいな口ぶりで責任から逃れて、その後に自虐しまくって同情を誘う。悪い意味でリアルな母親よな。
感情を爆発させれば、男が折れるってことを本能的に理解しているのだろうか。
…………。
「なんとか言ってよ、小五郎ちゃん。小五郎ちゃん、貴方はそんなに冷たい子じゃないわ。ママを困らせたくなっただけよね? 本当はミルクを飲みたいんでしょう?」
ほら、出たよ。
自分を責めるようなことを言ってたくせに、無視されたら相手を直接ゆさぶりに来るんだ。母親ってのは、そういうもんなんだよ。
「小五郎ちゃんの言い分は、よーくわかりました。そーですかそーですか。貴方にとってのママは、自立するまでの飯炊き女でしかないのね。もういいわ、ママ以外のおっぱいを求めればいいわ」
「ああ、そうさせてもらうよ」
委員長には悪いが、俺はもう押し負けん。
こいつらの圧に負けて毎回折れてちゃ、そのうち破滅しちまうよ。
後先考えずにその場凌ぎするのは、もうおしまいだ。
「待て、なぜ脱ごうとする? 委員長?」
「さっきコンビニで会った時に言ったでしょ? 母親である前に女だって」
言ってたような気がしなくもないけど、それと脱ぐことになんの関連性がある?
「母親ではなく、一人の女として命令するわ。私の胸をしゃぶりなさい」
そう来たか。要求を変えずに立場だけ変えるなんて、恥知らずにもほどがある。
命令なら従うしかないってか? 残念だが、そんな義理も義務もないんだよ。
「いいから脱ぐのをやめろって」
なんで家族の前で、同級生の胸をしゃぶらにゃならんのだ。
一生もののトラウマになるわ。
「何を言ってるのかしら? 私をママと認めなかったのは貴方よ? 私がママじゃないなら、私達は親子じゃなくて男と女なのよ。女をさんざんその気にさせといて、今更芋引いてんじゃねえぞ! 失礼、大きい声が出たわ。でもね、貴方が悪いのよ。淑女が恥を忍んで挑んでいるのに、背を向ける男がどこにいるっていうの? 自分が男だってことを、快楽と痛みを通じて教えてあげるわ。私のこの手が真っ赤に燃える! 股間を掴めと轟き……」
「ママ! お腹すいた! ミルク飲みたい!」
「よーちよちよち! たくさん飲んで大きくなりましょうねぇ」
「きゃっきゃっ」
うん、人間、素直が一番だよ。
そうだよ、哺乳瓶がなんだって言うんだ? 昔アニメかなんかのコラボカフェで、哺乳瓶にドリンク入ってるメニューがあった気がする。だから問題ない。
ほら、この体勢も、なんかカッコいいじゃん? 死ぬ直前の戦友を抱きかかえて、最後の酒を飲ませてあげる的な……。ほら、朝日とか夕日を眺めながらさ、二人で色々語って……で、途中で返事なくなって……みたいな感じ?
「良い子でちゅねぇ」
この抱きしめて背中ポンポンもあれだ、格上に命がけで挑んだ仲間への称賛的な感じで……。違うんだ、恥ずかしい行為じゃないんだ。
でもおかしいな。皆の顔が見れないや。特に妹と母親の顔。
だから俺は、委員長に抱き着き続けることしかできなかった。振り向いた瞬間に憤死するような気がしてならない。頼む……このまま二階まで運んでくれ……。
自室に戻った俺はベッドに寝転がり、コンビニでなんとなく買ったゲーム雑誌をボーっと眺めた。
臨時収入もあることだし、本来であればワクワクしながら読んでいたことだろう。
だけど、全く頭に入ってこない。
ゲームのスクリーンショットや公式イラストを、無心で流し見し続けた。
そして不意に妹と母親の顔を思い出して、少し泣いた。
「小五郎ちゃん? 入るわよ?」
言い終える前に入室する委員長。
こういうところも母親っぽいよな。なんで母親って生き物はノックしないんだ? いや、こいつは母親じゃないんだけど。
「……ママ、何の用?」
こんな呼び方したくないのだが、委員長呼びをしたら、何をされるかわからない。
ママとして扱わないと、男女の関係に持っていくとか、反則だろ。
俺が無知なせいなのか、全く理解ができない。
母性本能と恋心って相反するものじゃないのか?
いや、待て。ダメ男に母性本能を刺激されて好きになるってのも、ありふれた話だよな? ってことは、委員長は正常なのか?
「お部屋のお掃除をしてあげようと思って」
「……ありがとう」
こまめに掃除するほうだし、人に物を動かされたくないので、『結構です』と言いかけたが、なんとか踏みとどまった。
健全な望みはなるべく受け入れとかないと、いざって時に拒否できないからな。
俺が思うに拒否権とはポイント制なのだ。やることをやっていればポイントが溜まって、不条理な命令を拒むことができる。逆もまた然り。
「んー、小五郎ちゃん?」
部屋中を見渡した後に、声をかけてきた。
何が引っかかったのだろうか。綺麗すぎて困っているのか?
「物を片付けただけで掃除した気になってないかしら?」
「え? 綺麗じゃん」
整理整頓は勿論、掃除機だってかけてる。厳しめに見ても及第点では?
「細かいところまでお掃除が行き届いてないわね」
そう言いながら、本棚の埃を指ですくって見つめる。
姑かよ。オカンじゃなかったのかよ。
ドラマでしか見たことないぞ、それ。
「じゃあ掃除するから、埃を吸わないようにこれを」
口元を覆うための布でも貸してくれるのかと思ったら、とんでもない物を寄越してきやがった。予想の範疇と言えば範疇なのだが。
「ありがとう、ママ」
顔面に投げつけたい気持ちを抑え込んで、手渡されたおしゃぶりを咥える。
断ったら今度こそ、乳をしゃぶらされかねない。
「可愛いぃ……ウチの子マジ天使なんですけどぉ……」
委員長なのにギャル口調って、ギャップがあっていいな。いつもみたいにポニテだったらよかったのに。
あっ、写真撮らないで。照れ隠しとかじゃなくて、マジでやめて。
そのスマホ、カメラに特化した新型だろ? 宝の持ち腐れだぞ?
SNSのアイコンとかにしたらマジでキレるぞ? タイムラインに載っけたら、女と言えど、ビンタかますからな?
「あらあら? この雑誌はなぁに?」
あっ、やべっ。
際どい衣装の美少女キャラが表紙のアニメ雑誌が、委員長に見つかってしまった。
やだなぁ、もう読まないと思うけど、それでも捨てられたくねえなぁ。
嫉妬で発狂とかせんかな? マジで嫌なんだけど……。
「へぇ、小五郎ちゃんはこういうアニメが好きなんでちゅねぇ」
掃除の手を止め、雑誌をパラパラとめくる委員長。
公開処刑やめてください。
今の時代、アニメを見ることは恥ずかしいことじゃない。そもそも、恥ずかしい時代を知らない人間だけど。
でも同級生の女の子にマジマジと見られるのは、気恥ずかしいな。
「女の子もロボットに乗るのねぇ」
「大昔からあると思うけど、女の子メインは珍しいのかな」
あんまりロボット系アニメ詳しくないし、俺そのアニメ見てないからなんとも言えんけど。
……際どい衣装だな。パイロットスーツとか着ないの?
「異世界転生特集? なぁにこれ?」
「……あんまり知らんけど、トラックに轢かれたら異世界に飛ばされた的な」
「へぇ……?」
あんまりピンときてないらしい。まあ、俺もあんまりよくわかってない。
なんで異世界に飛ぶんだろな? 初めからファンタジーじゃあかんのかね?
食わず嫌いしちゃいけないんだろうけど、別にめちゃくちゃアニメ好きってわけじゃないからなぁ。佐々木君におススメの作品を聞いてみようかな。
「これ面白そうじゃない? 異世界でスマートフォンを使うんですって」
「……ありふれた設定な気もするけど……」
異世界に電波とか通ってんの? 基地局あんの?
まあ、特殊なスマホって設定なんだろうけどさ、ファンタジー感なくない?
あくまで推測だけど、異世界の人らが有していない技術を独り占めして、羨望を浴びるって展開がウケるんかね。
「小五郎ちゃんは、このアニメを見たの?」
「いや……異世界はあんまり……それにその作品、ネットでボロクソだし」
「よかったら一緒に見てみない?」
この作品のどこに惹かれたんだろうか。
主人公が頼りなさそうな顔してるから? 多分だけど、そういうキャラに限って腹立つ性格してると思うぞ?
「委員……いいよ、ママ」
危ない危ない、もう少しで委員長と呼ぶところだった。
そろそろ慣れろよって思うかもしれんけどさ、変な癖つけると学校でもママって呼んじまうぜ?
クラスメイトはもう知ってるだろうけど、だからといって積極的にママ呼びしたくない。唯一の救いでもある委員長モードが消失する恐れがある。
「あらあら、嬉しいわ小五郎ちゃん。じゃあお掃除早く終わらせますねぇ」
正直あんまり見たくないが、赤ちゃんプレイよりはいいか。
暇つぶしがてら雑誌を手に取り、委員長が見たがってるアニメのページを確認してみる。うん、キャラは可愛いな。あらすじは見飽きた感じのベタベタなヤツだが。
せっかくだからロボット作品デビューしたいし、さっき委員長が見てたヤツを視聴したいんだが、とても言い出せんな。
めっちゃウキウキしながら掃除してるもん。
この笑顔を守りたいっていう感情は、男としての感情なのか、それとも母性にあてられたボウヤとしての感情なのか。前者であることを切に願う。
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