第24話 私を抱いた感触、どうだった?

 医療用語ではないが、病院勤めをしていると“当たる”という現象を耳にすることがある。

 単純な確率だし、当直医に問題はないんだが……。

 どういう理由か、夜勤するたびやたら急患を呼び寄せる運の悪い先生がいて、そういう人を「あの先生、よく当たるからなあ」と話題にすることがある。


 その日は”大当たり”だった。

 交通外傷とは別の急患が入り、重ねて整形外科の先生がばんばん仕事を振ってくる。

 先輩の体調不良を心配するどころか、別室で働いてたせいで顔を合わせる暇すらないまま、


「津田君そっち回すわよ!」

「部屋空きました、了解です!」


 と、怒号が飛び交い、ひたすら休む間もなく走り回った。





 夜九時を過ぎ、四時間越えの残業をこなしたところで、ようやく患者がはけてきた。

 画像処理を終え、自分でも分かるくらいむわっと汗ばんだ額や首筋をペーパータオルで拭う。


 修羅場だった。

 息切れするくらい働き、やば、もうこんな時間だと思う一方、重い患者を捌いたあと特有の高揚感が抜けきらず、ふうと呼吸を整えるように息をつく。

 ……何とかミスもなく片付けられた。


 一刻を争うシビアな状況ではなかったもののキツかったな、と首をひねりつつ薬師寺先輩をみれば、さすがの先輩もしんどそうに椅子に腰掛け目頭を押さえていた。

 さっきよりも青白い顔で、ふるりと首を振る先輩。

 まとめたポニーテールが力なく揺れるのが、いつもの先輩らしくない。


 ……大丈夫、だろうか?

 体調不良、もしかして悪化したんじゃ……?


「先輩。大丈夫ですか」

「……ごめんなさいね、津田君。遅くまで働かせて。でももう大丈夫だから、上がって頂戴」


 と、先輩が立ち上がろうとして――つんのめった。

 かつ、と、つま先が椅子の脚にひっかかり、バランスを崩しかけたのを見て、


「っ、と」


 とっさ先輩の身体を受け止めた。


 途端にのしかかる、先輩の軽い身体。

 普段あれだけ気迫に満ちあふれ、大きく見えた先輩は……受け止めてみれば、思ったよりも小さく。

 同時に、先輩の首筋からむわっと香るリアルな汗臭さが鼻につき、俺はなぜか妙に「ああ、この人も人間なんだな」なんていう場違いな感想を抱く。


 俺にとって、薬師寺先輩は完璧だ。

 仕事に対して誰よりも厳しく、何でもできてしまう、俺の苦手な人。

 ……そんな先輩でも当たり前だけど汗はかくし、体調も悪くなるし。

 俺に倒れかかる隙を見せる時もあるんだな、と。


 ……それに遅れて感じるのは、もちろん、服越しでもむにゅっと大きく主張する柔らかさで――


「……津田君。美人を抱きしめたい気持ちは分かるけれど、そろそろ離してくれないかしら?」

「っ、あ、す、すみませっ……」

「冗談よ。ありがとう、受け止めてくれて」


 くすくす笑いながら身を引く先輩。

 色白な頬をうっすらと朱に染めつつも唇が微笑んでいることから、わざと長引かせてたんだなと今になって気づく。……俺は、はめられてしまったらしい。


「汗臭かったでしょう?」

「いえ。俺も仕事で汗だくなんて普通かと」

「そこはもっとうまく誤魔化しなさい。嗜みでしょう」


 小突かれる。

 しまった。いまのは礼節に欠けた発言だったか。女性に向かって汗臭い、だなんて。

 ……と、冗談を合間に挟んだお陰か、互いの空気がゆるりとたわんだ。


「でも本当、ごめんなさいね津田君。遅くまで残業させて。しかも、私のみっともない姿まで晒して」

「いえ。けど本当に体調悪いんですね先輩」

「まあ、ね。けど本当に大丈夫だから。……ああ、津田君。帰る前に、あと十分だけ時間もらっていい?」


 もちろん。息つく暇もなかったので、俺が帰るまえに一息休憩を入れたいんだろう。

 薬師寺先輩が、ふふっと明るさを演じて笑う。


「本当、頼りになる男になったわね、津田君」

「先輩の指導のおかげです」

「そう言ってくれると嬉しいわ。じゃあ時間ちょっと貰うわね。――ところで」


 と、先輩が踵を返そうとした手前で、足を止めた。

 ん?


「私を抱いた感触、どうだった?」

「何がです?」

「大きいって思わなかった?」


 何が、と言えるわけもなく言葉を飲み込むと、先輩は悪魔のように唇をゆるめて廊下に出て行った。


 先輩の背中が消え、それでもしばらくの間、俺は金縛りにあったように固まってしまい、唾を飲む。

 ……ったく。

 ダメだ。先輩は本当に、俺の苦手なところを突いてくる。

 不意打ちが得意というか。そんな面が本当、キツイ。


 という心のざらつきとは、別に――彼女の裏の意図を理解する。


「……あんな姿見せられて、放っておくなんて、出来ないだろ」


 あの薬師寺先輩がふらついて倒れかけるなんて、余程のことだ。

 下手したら今ごろ、トイレに駆け込んでるのでは? と疑いたくなる。

 その体調不良を誤魔化すために、俺をからかうような演技をわざと見せたのでは……と、思う。


 このまま先輩を当直させたら、もっと体調が悪くなるのは目に見えていた。

 そもそも病院に一晩泊まると体力を削られるし、ろくに眠れないので身体はしんどくなる一方。


 かといって、俺が当直を交代する訳にもいかない。

 外来でルミィさんを待たせてしまっている……彼女と帰るという約束を破るわけにはいかないし、破りたくもない。


 ホント、厄介事ってのは重なるよなあと悩んだ末、申し訳ないが……

 スマホを開き、頼りになる後輩にコールをかけた。


『もも、もしもし先輩!? どうしたんですか?』

「里山。悪いな夜遅くに。いま大丈夫か? 何かしてたか」

『え!? あ、だだ、大丈夫です。……今はその、ひとりで先輩のこと考えて…………シてただけなので』

「ごめんよく聞こえなかったけど」

『なな、っ、何でもないです私何言ってんだろ。それで、どうしたんですかこんな時間に』


 慌てふためく里山に、内心ほんとに申し訳ないと思いながら説明。


 自分も駄目。先輩もキツそう。となれば、代理の人間を用意するしかない。

 申し訳ないと思うが、本当、困ったときには他人に頼るしかないんだよなあと、俺はつらつらと事情を話すと、里山は快く了解してくれたので、ホッとした。

 よし。後は技師長に変更の連絡をすればいい。


 先輩のことは苦手だ。

 けど、苦手であると同時に頼りになる先輩だからこそ、こういうとき力になりたいんだと思いながら、技師長に事情を説明して――


『いや待て、津田。そういうのは先に、俺に連絡するのが筋やろうが?』


 怒られてしまい、失敗した、と今になって気がついた。


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