第23話 今夜は寝かせないわよ?
異変の兆しは、日常の隙間に隠れているものだと俺は思う。
たとえば今日の仕事中――薬師寺先輩が妙に早足だったとか。お昼ご飯を抜いてた、とか。
そういう小さな出来事の隙間にだって、理由があるものだ。
*
例のスト-カー野郎から逃げた。
職場でメッセージを受け取った瞬間、ヒヤリとしたものが俺の背筋を撫でた。
世間で怖い事件が起きてるのはよく聞く。
大丈夫か心配になり、幾つかメッセージをやり取りした後、勢いでルミィさんに電話し――
「なら、今から俺の職場くる? ルミィさんの自宅とは反対方向だし」
『へ?』
「病院って入口に守衛さんもいるし、人の目もあるから安全だと思う。少なくとも、今から一人で帰るよりは絶対いい」
俺がついてても頼りにはならないと思うが、一人より二人の方がマシなはずだ。
『んー……タク君。嬉しいけどそれ、職場の人に誤解されない?』
『誤解されるより大事なことがあるだろ。怖いなら、そのまま俺の家に泊まればいい』
外聞を気にしてる場合じゃない。安全に関わる話だ、と彼女に病院まで来るよう伝えつつ、通話を切る。
叶うなら今すぐ迎えに行きたいが、仕事を放り出す訳にもいかない――と、顔をしかめたところで、受付窓口のチャイムが鳴った。
夕方過ぎ。職場に残っているのは遅番の俺と、当直の薬師寺先輩だけだ。
うちの病院は夕方遅くまで整形外科を行っているため、当直者一人だけでは対応が厳しく、患者がある程度はけるまで一人残業する決まりになっている。
……幸い、いまは患者も少ない。
叶うなら早めに上がりたいが――と薬師寺先輩を伺えば、病院用PHSを片手に何か連絡を受けていた。
綺麗な眉にきゅっと皺が寄るのを見て、よくない状況を察する。
「薬師寺先輩。何か入りました?」
「今から救急ですって。車とバイク」
「……かすったくらい、だったり?」
「真横からドーン」
うわ、重っ。
まずいなこれは。一時間で終わらないかもしれない。
ルミィさんには外来で待つよう伝えたけど、あまり遅くなると心配させてしまう――
「津田君、帰ってもいいわよ?」
「え」
「外来のほうもはけてるし、救急一件だけなら私一人で十分。何か、用事があるみたいだし」
と、俺の握ったスマホを見て微笑む先輩。
……確かに、普段の薬師寺先輩なら一人でこなしてしまうだろう。
先輩の指示に、後輩の俺が口出しするのは野暮かもしれない。……けど。
「いえ。もう少し、残ります」
「気にしなくていいのよ? そもそも遅番は時間の決まってない残業なんだし、十分働いてくれたし。あとは私一人でも」
「確かに、普段ならそうですけど……」
俺はそっと、薬師寺先輩を伺う。
すらりとした背丈に、凜とした佇まい。
美人でありながらも、仕事の出来るベテラン戦士のような風貌は相変わらずいつも通りに見える。
だから、気のせいかもしれない。
勘違いかもしれない、けど。
「薬師寺先輩。気のせいだったら申し訳ないんですけど。今日、あんまり体調良くないですよね?」
先輩のきれいな眉が尖った。
――違和感を覚えたのは、今日の昼食時だ。
先輩が、お昼ご飯を食べなかった。
「何となく気が乗らなくて」と言ったが、先輩は前に自分で「お昼ご飯を食べるとエネルギーが出るわよね」と笑っていたので、ヘンだなと思って見てるうちに、気づいたのだ。
仕事の合間に挟まれる、雑談の頻度。
表情。もしくは歩調。
眉に皺を寄せた険しさや、検査の合間にふっと息をつく様子など……。
「おかしいわね」と、先輩が苦い顔をする。
「仕事で、そんなそぶりを見せた覚えはないのだけど」
「ええ。今日の先輩は、普段以上にキレよく働いてたと思います」
「なら、どうして分かったの?」
「キレが良すぎるっていうか、前のめりすぎっていうか。だから、体調悪いのを隠そうとしてるのかな、って」
薬師寺先輩は、他人に隙を見せない。
だからこそ不良の自覚があるとき、いつも以上に行動が早くなる。
見抜かれたと察したか、はぁ、と先輩は溜息をついてお手上げのポーズ。
それも様になるんだから、美人は得だと思う。
「……バレてるつもりは、なかったのだけど。ダメね、後輩に体調不良を悟られるようじゃ」
「大丈夫ですか? 発熱とかは」
「熱あったら出勤停止よ。そこは弁えてるわ。……心配しないで。迷惑かけるようなことは、しないから」
仕事内容に問題ない、と手を振る先輩だが、そうじゃない。
「迷惑、かけてもいいんじゃないですか?」
「……え」
「先輩から見たら俺は頼りにならない後輩かもしれません。けど、手伝いくらいは出来ます。先輩だって、その方が楽なはずです」
「けど、今日の夜勤は私の担当だし」
「ちょっとくらい、無理させてもいいじゃないですか。困ったときはお互い様です」
仕事ってのは一人で頑張りすぎるものじゃない。
それに、無理をしてミスをしたらそれこそ、後で「体調が悪いのに何で無理したんだ」と言われかねない。
「それに俺は、いつも先輩に頼ってますし。たまには頼られる側もやらないと、釣り合いが取れないかなって」
ルミィさんのことは気になるが、病院まで逃げ込んで来れるなら安全には問題ないはず。
それより今は、目の前の仕事だ。
と、先輩は一瞬……
本当に珍しいくらい、まちくりと大きな瞳を瞬かせて……
「津田君は、ほんとに……」
と、言いかけたところで廊下がにわかに慌ただしくなった。
救急患者が到達したらしい、と気づくと同時に、ふたたび薬師寺先輩のPHSが音を鳴らす。
すぐに「またですか?」と声を荒げたのを見て予感がした。
「ごめんなさい、津田君。せっかくの申し出だけど――私とあなたの二人だけでも、足りないかも」
「あー……そう来ましたか」
「まあ世の中ってそんなものよね。事故が二件続けて来ないとも限らないわ」
今宵は修羅場になりそうだ。
と、嵐の予感を覚えたところで、机に置いてた俺のスマホが震えた。ルミィさんからだ。
『病院ついた! なんか騒がしいね』
『良かった。守衛さんもいるし、事情を話してしばらく待っててくれ。ちと、俺の方はまだ手が離せなさそう』
『了解っ。タク君お仕事がんばってねっ』
応援のメッセージを貰い……
背中を押してくれる人がいるっていいな、と微笑みつつ、頑張るしかないぞと覚悟を決める。
「津田君、にやけてるわよ。もしかして彼女?」
「友達です」
「その割には、いい顔してたけど」
ええ。友達だけど、ただの友達よりも素敵な人から、仕事のエールを貰えたので。
……と、説明してもきっと先輩には分からないと思ったので俺は「仲のいい友達から、仕事頑張ってと言われて」と、誤魔化した。
「じゃあすみません、先輩。まだ体調よくないかと思いますが、ちょっと、踏ん張りましょう」
「今夜は寝かせないわよ?」
「それ、人によっては勘違いされるんで止めた方がいいですよ」
「勘違いするの?」
「しませんけど」
「してもいいのに」
一瞬どきりとするも、薬師寺先輩ならではのユーモアだろうと聞き逃し、俺達は仕事の鬼となった。
まあそういう日だってあるだろ、と思いながら。
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