第5話 先輩。ちゃんと、私を見てくれてますか?

 東宮真田病院。

 真田系列に属する俺の職場は病床数およそ400と、病院の中では中規模に属する施設だ。

 その中で、俺は医療職――普通の人には馴染みがないと思うが、いわゆる、レントゲン撮影などを担当する仕事についている。


 もちろん大学病院みたいな、化物クラスの病院には遠く及ばないものの、それでも地方の医療を担う一病院。

 しかも入職当時は例の感染により、死ぬほど忙しい日々が続いたあの時期だ。

 最近は小康状態というか、流行も収まりつつあるため仕事は落ち着きつつあるものの、患者はいつでも来るので毎日忙しいことに変わりはなく。


 つい先日、平凡な男が人生初となる男女の交わりを逃した、情けない翌日であっても、仕事は容赦なく襲ってくるのであった。


*


「あのさあ里山ぁ。お前、何回同じミスするわけ?」


 病棟での仕事を終え、ほかの人の撮影手伝いをしようと技師室へ戻ってきたところで、声が聞こえた。

 そっと伺うと、新人の里山が、藤木先輩に叱られていた。


 里山詩織は、今年入職した新人の女性技師だ。

 黒髪のボブカットに、愛嬌のある小柄な身長。

 見ようによっては可愛い子犬のような彼女は、入職当時から俺のことを「津田先輩」と呼んで慕う、二つ下の後輩にあたる。去年入職した技師が一年で辞めてしまったため、いまの俺が直接指導している子でもある。


 そんな彼女が、ぐっと辛さを堪えるように唇を噛み、叱責を受けていた。

 相手は藤木先輩。

 年頃もそろそろ四十にさしかかろうという男性で、自分から見ても大先輩にあたる技師だが――


「なんつーか、あんま勝手なことするなよ、お前。っていうか今の仕事は昔に比べたら楽になってるんだ、俺が昔の頃はだな……」


 くどくどと長話を始めた藤木先輩の会話から、トラブルの原因を推測。

 どうやら撮影範囲に入っていない部位まで、多めに撮影しまったらしい……けど。


 側にあった電子カルテで、里山の行った撮影内容を確認。

 一通り確かめた後、俺は「すみません」と、二人の間に割り込んだ。


「藤木先輩。いまの話ですけど」

「ああ。お前も聞け、津田。里山がまたミスしたんだよ。お前が指導してる後輩なんだから、確認作業はきちっとするように――」

「その件ですけど、たぶん、里山は間違えてないと思いますよ」


 訝しむ藤木先輩に、カルテを見せる。

 オーダーの表記自体は胸部撮影のみとなっているが、カルテの中のコメントまで確認すれば、腹部も追加するよう記されている。

 これは里山のミスというより、Dr.側のオーダー間違いだ。


「里山はそこまで確認して、撮影したんだと思いますけど。違うかな、里山」

「あ……は、はい。先生に電話で確認して、追加で撮りまして」

「っ、そういうのは先にオーダーに書いておくべきだろ」

「オーダーの修正は必要ですけど、確認したなら問題ないかと」


 技師の仕事は基本、医師の指示に従うのが絶対ではあるが、その医者側の間違いに気づくのもまた仕事だ。

 そもそも、藤木先輩が里山の話しをきちんと聞いてあげれば、行き違いは起こらなかったはず。


 ついでに言えば、いまは午前十一時という、仕事がもっとも混み合う頃合い。

 叱責に時間を使うくらいなら、先に待っている患者さんの対処をして欲しい、という本音もあった。


「ったく。ミスじゃないなら、最初からそう言えばいいのに」


 はあ、と溜息をついて仕事に戻る藤木先輩。

 その背中を見届けた後、ちょっと、と里山に手招きした。


「里山。こっち」

「え? で、でも、仕事が」

「いいから」


 彼女を手招きし、バックヤードへ。

 里山はいまにも泣きそうに唇を噛み、ぐっと我慢した顔をしてたので――俺は少し身をかがめ、彼女を威圧しないよう視線を合わせて、笑う。


「落ち着いて。まずは深呼吸」

「っ……は、はいっ」

「里山。相手がベテランの先輩だからといって、必ず正しいわけじゃない。間違ってると思った時は、ちゃんと言っていいんだからな? まあ、藤木先輩はそういうの聞かないだろうけど。……そういう時は俺とか、薬師寺先輩とか、技師長に聞いてもいい」


 自分が新人だからといって、先輩に怒られたら必ず自分が悪いわけではない。

 とくに藤木先輩は、なにかと後輩に八つ当たりしてくる人で、周囲の評判も良くない。


 それも含め、もっと周りを頼っていいんだぞ、と彼女の肩をかるく叩く。

 女性相手にあまり接触はよくないが、ほかに励まし方を知らなかったし、俺と里山はただの先輩後輩だから大丈夫なはず。


「五分、休憩したら戻っておいで。っていうか俺もごめんな、きちんと庇えなくて」

「いえ。……すみません、先輩に手をかけさせてしまって」

「先輩に手をかけさてこそ、後輩だって。それくらいしないと先輩の立場がないだろ」


 頑張って、と声をかけつつ、先に仕事へ戻りながら――

 内心びびっていたのは、バレなかったよな、と密かに思った。


 ……いまの励ましは、彼女のためになっただろうか?

 余計なお世話になってないだろうか。

 自分は、先輩としてうまくやれただろうか。


 後輩の前に立つとき、先輩だって本当はびびりながら仕事をしているんだぞ――なんて姿を晒すわけにはいかない、という見栄を張りながら、俺も仕事に復帰した。

 プライベートでは情けない男でも、仕事中くらいは、大人の社会人として格好つけたいものなんだよ。





 救急搬送されてきた交通外傷を何とか捌いた、昼二時過ぎ。

 ようやくありつけた昼食を口に運ぶと、里山が遅れて隣に座り、そっと礼をしてきた。


「先輩、ありがとうございました。本当に助かりました……」

「や、まあ、先輩に言い返しにくいのは分かるしな。それに今回の件は、里山は悪くないし。理由を聞かなかった藤木先輩が悪い」


 正直なところ、藤木先輩の態度には職場スタッフ全員が首を傾げている。

 入職当時は俺も叱られ、自分が悪いことをしてしまったと勘違いしたが、他の技師にフォローされてようやく気づいた。

 あの人が変なのだ、と。


 まあ、どんな職場にでも変わり者はいる。

 気にすることはない、と、昼食の魚フライを口に運ぶ俺だが、どうやら里山はずいぶん悩んでいるらしい。

 折角の可愛い眉に、きゅっと皺が寄っていた。


「本当、私、なんでこんなにミス多いんだろう……」

「そんなこと無いと思うけど」

「……でも、今回ももっと早めに、藤木先輩に言っておけば良かったのに」

「まあ、それはあるけど。でも最近の里山はさ、ミスしたときに自分で気づくようになっただろ? それは立派な成長だし、ミスしても結果的に致命傷にならなければ大丈夫だって、俺は思うけど」


 仕事で大切なのは、ミスをしないことじゃない。人間である以上、どんな大ベテランでもミスはする。

 大切なのはそのミスに気づき、リカバリーすることだ。


 間違えたらすぐ、他人に相談する。

 自分一人で抱え込まず、すぐに情報を共有する。

 最近の里山はそれが出来るようになってきているので、彼女が順当に成長している証だ、と、密かに思う。


「大丈夫だって。里山が頑張ってるの、ちゃんと見てるから」

「……。そう、ですか?」

「ああ」


 里山がこちらを伺う。

 珍しく彼女と見合う形になり、……里山ってよく見るとへにゃっとした唇といい、柔らかそうな頬といい、可愛い顔してるよな――なんて、仕事に関係ないことを考えつつ。


「大丈夫。ちゃんと見てるからさ」

「……津田先輩。ちゃんと、私を見てくれてますか?」

「もちろん」

「――っ」

「後輩だし。仕事だしさ」

「……あ。はい。そうですね……」


 職場の先輩、後輩の関係である以上、彼女を見ておくのも先輩の仕事だ。

 ……と思ったのだが、里山のテンションがなぜか急降下したような気がした。


 あれ。俺、何か失敗しただろうか?

 よく分からないが、とにかく何かを間違えたらしい、とは思ったので、慌てて、


「ま、まあ本当、困ったら俺以外の先輩に相談してもいいし。ほら、薬師寺先輩とか、おなじ女性技士だしさ」

「なんで、そこで薬師寺先輩の名前が出てくるんですか?」

「普通に俺等より出来る先輩だし。……まあ、ちょっと怖いけどな」


 薬師寺先輩は、俺の三つ上にあたる女性技師だ。

 美人だが、仕事に対してストイックな姿勢が強い、いわゆる”出来る”人間。

 そのぶん言葉遣いが厳しい時もあり、俺はちょっと苦手だけど……頼りがいはある。


 が、里山はちょっと違う印象を持っているらしく。


「けど、薬師寺先輩ってすごく美人ですよね。背も高くて、出るところは出てて、引っ込むところも引っ込んでて。……私と違って、美人だし。だから、その」

「いや、いまは美人かどうかじゃなくて、仕事の話で。あと、里山も十分可愛いと思うけど――」


 と、昼食の雑談をしていた俺達二人に、ふっと影が差し込んだ。


「あら。後輩二人そろって私の話? つれないわね、私も混ぜてくれない?」


 ひんやりと差し込まれる冷気、ひゃう、と背筋を震わせる。

 二人揃って振り返れば、同じく昼食のためのトレーを抱えた薬師寺先輩が、怪しく笑いながら俺達を見下ろしていた。

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