第4話 今晩のおかずはあたしにした?

 ルミィさんの爺ちゃんが頭を打ったらしい。

 スマホを耳にあてたルミィさんが、声を潜める。


「うん。それでお母さん、爺ちゃんどんな感じ? 救急車は? ……うん。うん」


 俺は医療職なので多少の知識はある。

 高齢者が頭を打つのは、脳出血をはじめとした重症例につながりやすいので、速やかに病院に行く方がいいだろう。

 いまは大丈夫でも、後々知らない間に出血が広がって……なんてケースもあるしな。


「じゃあ車で病院、連れてったんだね。なら大丈夫だと思うけど……え?」


 ルミィさんの眉に皺が寄る。

 もしかして、容体が案外悪い、とか。

 だとしたら非常に不安だが――


「心配だから会いに来て欲しい? 今からぁ?」


 ルミィさんが面倒そうにスマホで時刻を確認した。いまちょうど、七時過ぎ。

 ……急ぎで新幹線に乗れば、間に合わないこともないが……。


「や、んー。あたし行っても仕方ないでしょ、やることないし。……いや、あのね? 何かあったら困るって、あたしが行ってもあとは病院の人が――ああもう、お母さん大丈夫だから落ち着いて。入院したっていっても、いきなり何かあるわけじゃないでしょうに」


 説得する彼女だが……

 どうやら彼女の母親は相当焦っているのか、どうも話しが込み入っているようだ。


 居心地悪く待っていると、彼女が溜息をつきながら通話を切った。

 で、「あーもう!」と頭を抱えてベッドに蹲ってしまう。


「どーしよー……お願いだから今から来て、って」

「まあ、家族がびっくりする気持ちは、分からなくもないよ」

「だからって、今行ってもさぁ。あたしすることないのに。……てゆーか、今この状況だよ? だよ?」


 と、困ったように両手を広げる、ルミィさん。


「今から、男と女が合体しよう! いざ、人生の初体験! って時にさぁ……その……なんか、ねえ?」


 まあぶっちゃけ、……なかなかの状況は状況であった。


 大人の男女として初体験を迎える、俺にとっては人生における転換期(?)の直前。

 電話が来るまで心臓は張り裂けそうなくらいドキドキしてたし、それは彼女も隠していたけど同じはずで、もう本当に今から……という場面。


 けど、さすがの俺も、彼女の家族にトラブルが起きた後まで強行する気はなかったし、それに――


「あー……まあ。ルミィさん。行ってきたらいいよ」

「いや~。まあ心配は心配だけどさぁ。……でもいいの?」


 上目遣いで覗いてくる彼女。

 この子ホントに可愛いなという本心を隠しつつ、俺はぐつぐつ煮えたぎる本能を抑えながら、ゲーミングチェアに腰掛け息をつく。


「まあ。俺等のことは、べつに今日じゃなくても、……出来るしさ」

「でもここであたし帰ったら、めちゃくちゃ匂わせ女にならない? 誘うだけ誘って帰るとか、完全にクソ雌ガキムーブじゃんっ」

「ルミィさんがそういう人じゃないことくらい、分かってるし。それに、そういう雰囲気じゃなくなっちゃったしさ。……それとも、爺ちゃんのこと心配じゃない?」

「う~~ん……」

「家族が嫌いなら、別にいいけど。気になったまま俺とやって、気分、乗れる?」

「ん~~~……っ」

「だろ? せっかく初めてなんだしさ。心配事はない方がいい。ボス戦するのに、変な心のデバフつけたまま戦うより、万全で迎えたいだろうし」


 まあ、彼女が申し訳なく思う気持ちはわかるけど。

 と、彼女の肩をぽんと叩いて、俺はなんとか頬の筋肉をつり上げて笑顔をみせた。


「俺等、友達だろ? ゲーマー仲間だろ? こういう時に、相手に遠慮しないのがいいんだろ? ここで止めたら相手に悪いから、なんて気を遣ってやるのは俺達らしくない」

「でもさ、タク君。したくない?」


 してぇよ!

 超してぇよ!

 今すぐその身体を押し倒して大きな胸揉んで、服脱がせてアレこれしてぇよ、男の夢だよ!


「……まあ、別に。そういう気分じゃなくなったしさ」

「笑顔めっちゃ引きつってるし」

「格好つけさせてくれよ……」


 目ざといなあ。

 けど仕方ないだろ、俺だってまだ経験ない童貞野郎だし……。


 とは口にせず、椅子をくるっと反対に向ける。

 彼女を見ないようにしつつ、手をひらひら振って。


「まあ、そういう訳だからさ。遠慮するなって」

「……んーまあ、そだね。面倒な母親だけど、心配っちゃ心配だし」

「そうそう。気になることは先に片付ける。仕事だってそうだろ?」

「さっすが社会人。タク君、そーゆーところがいいよねホント」

「茶化すな」

「茶化してないんだけどなあ。……よ、っと」


 とん、と彼女がベッドから起き上がる音。

 それから俺の横に並び、んー、と背伸び。


「じゃあごめんね、タク君。ちょっとクソ女ムーブしちゃうけど、ホント、約束は必ず守るからさ!」

「ああ。まあ、期待しとく」

「期待しといて? あたしは約束は守る女だからねっ」

「ゲームだと回復よく忘れて死ぬけどな」

「そこは言わないのーっ。あ、そうだタク君」


 こっち向いてと言われ。

 俺は考えることなく、椅子ごとくるりと振り返って――


 途端に、柔らかいものが唇にそっと押しつけられ、思考が真っ白になった。


「――っ」


 呼吸が止まる。

 淡く、けれどなめらかな感触が舌の上をなぞり、ちゅっ、と音を立てて離れていく。


 ……あ、っ。

 いまの。

 き、キス?


 びたっと固まり、もちろん口づけも初体験だった俺はあまりの衝撃に目を白黒させ。

 ルミィさんもうっすら笑いながら、けどやっぱり恥ずかしかったらしく、ほんのりと白い頬を熱く染めながら。


「えへへ。続き、また今度ね。これで本気って、わかった?」

「…………あ、うん」

「照れてるし。じゃねー、ありがと」


 そうして彼女は、イタズラ好きな妖精のように部屋を後にした。


 パタン、と扉の閉じる音だけが、室内に響く。


 残されたのは、ルミィさんが今そこにいた残り香と。

 まだうっすらと熱を宿したままの、自分の唇。


 名残惜しく、女々しく、自分の口元に触れてみる。

 ……俺。

 いま、キスしたよな……?


 と、現実を遅れて認識し、とく、とく、と今になって心臓が強く強く高鳴り。

 急に恥ずかしくなって、俯きながら、――ああ。


「っ……あーもう!」


 畜生やっぱ押せば良かった!

 押し倒せば絶対ヤれただろ、今の!

 と、デスクに頭を突っ伏してむおおおおおと唸りながら、おでこをぐりぐり押しつけた。


 そりゃあ家族の気持ちは分かるよ。

 それに彼女と俺は友達で、心配する気持ちも本心だ。

 本心だけど、やっぱ……。


 やっぱ正直、やりたかったっ……!


 悶絶しながらベッドにダイブし、あああ、とベッドに拳を叩きつけてもんどりを打つ。


 べつに、自分が間違ってるとまでは言わない、けど。


 もしかして千載一遇のチャンスを逃したんじゃないか?

 俺、すげぇ惜しい瞬間でミスったんじゃないか?

 ルミィさんが実家から帰ってきたら「やっぱ気が変わった、ごめんねタク君、友達のままでいようね」とかいって、今の話はなかったことになったりするんじゃ……。


 まあ、彼女は約束を守る方ではあるけど、……そもそも俺達は恋人じゃないし。

 途中で気が変わっても「あ、いいよー」って流すのが俺達のスタンスだ。


 なのでそう言われたら俺も「おう、了解」と笑って流すに決まってるし、そもそも俺は、女の子に無理やり押せるほどの度胸もない。

 無理。絶対無理。

 だから今日を逃したのは、俺にとって致命的な失敗だったかもしれない……。


「……けど、仕方ねーよなぁ……」


 かといって、でも、あそこで押し切るのは、彼女に対して失礼だと思ったし、心配事を残させたくないのも本音だ。


 ならどっちにしても後悔したか、と、もんどりを打ちながら息をついて。

 ちょっと……大分……ていうか相当後悔しながらお風呂に入り、わざと熱めのシャワーを出して頭から思いっきり被りつつ。


 その夜は仕方ないので、自家発電に勤しむしかないな、としょぼくれながら、一夜を過ごしたのであった。

 ちょっと悲しい。







 それから二時間後、彼女からメッセージが届いた。


『実家ついた! 今日はごめんね、タク君。爺ちゃん大丈夫だって』

『よかった。夜遅いし、気をつけてな、ルミィさん』

『今晩のおかずはあたしにした?』

『泣きたくなるから止めろ』

『匂わせムーブまじごめん』


 ごめんなさい、のアイコンが届いたので許してあげた。

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