第3話 魅惑の谷

「あなた、よくそんなのんびりしてられるわね」


 呼び出しに応じて廊下に出るなり、椿原部長はそう不平をこぼした。


 女性にしては背が高く、パンプスのヒール高も合わさって恐らく百七十センチ近くにはなっているであろう、すらっと流麗な部長には美しさを伴った威圧感がある。

 しかし、中学高校とバスケ部で身長は百八十五センチほどある俺からすると、十五センチ以上も差がありどうしても見下ろさざるを得ない。

 こういう物理的な高低差や体格差もまた、部長の負けん気を煽ってしまっていたりするのだろうか。


「私があなたなら、午前中にあんなに時間を無駄にしておいて、のうのうと女の子とお喋りなんてしてられないけれどね」

「す、すみません。業務上の相談に乗ってもらっていまして……」

「へぇ、そう」


 一応口答えと思われない程度に言い訳をしてみたけれど、椿原部長は全く信じていないご様子で睨みつけてくる。

 まぁちょうど今楽しく笑っているところを見られたのだから、それも仕方ない。

 上司のパワハラについての談義は、一応業務上の相談に含まれるとは思うのだけれども。


「ところでその、ご用はなんでしょうか……」


 隙を見て尋ねてみる。

 休憩中に呼び出されることはほぼ習慣化していて、俺はきっちり一時間休めたことがない。

 とはいえただ嫌味を言うだけということはないだろう。

 大体なんらかの業務を押し付けられる。


 俺の質問に、椿原部長は一瞬停止して視線を下げた。

 俺に小言を言っている間に本来の要件を失念したのだろうか。

 まぁ実のところは文句を言うのが本題で、言い渡す業務の方が口実なのだろうから、要件はもう済ませたともとれる。


 これが漫画とかドラマなら、執拗に突っかかってくる女上司は、好きな女の子をいじめてしまう男子小学生みたいなノリで、実は俺のことが好きだから……みたいな展開になるのだろうけれど。

 現実はそう簡単にはいかない。椿原部長は素直じゃないんじゃない。ただただ素直なのだ。好意じゃなくて悪意にだが。


「そう、あなたにやってもらうことが────」


 瞬きの間の後に椿原部長はそう口を開き、再度顔をぐっと上げて睨みつけてくる。

 しかし肝心の要件を口にする前に言葉を詰まらせ、また殊更不機嫌そうな瞳が俺を串刺しにした。


「ちょっと、そのネクタイはなに!? だらしない!」

「あっ……」


 落ち着いた声色ながらも棘のある怒号に俺はハッとする。

 食事の時に少し緩めていたネクタイがまだそのままだった。

 休憩中に呼び出されたのだから仕方ないと思うけれど、それが通用する相手ではない。


「身だしなみくらいキチンとしなさい! 大人として最低限度のことよ!」


 そう言うと椿原部長は手早く俺の首元へと手を伸ばしてきた。

 怒りのままに首でも絞められるのかと一瞬身構えてしまった俺。

 しかし部長の細い手が握ったのは俺の首ではなく、ネクタイだった。


「まったく、そういうだらしないところからあなたは────」


 そうまたくどくどと文句をこぼしながら、椿原部長は俺のネクタイをギュッと絞め直してくれる。

 なんだ優しいなぁと思ったのも刹那。その手によって整えられたネクタイはそのまま俺の首を過剰に締め付けた。

 やっぱり俺の首を絞めることが目的だったか。


「ぐぇッ……」


 一瞬止められた呼吸に潰れたカエルのような声を出しつつ、しかし俺は決して見逃さなかった。

 俺のネクタイを絞めるために手を伸ばす椿原部長は、自然と腕が前に出て脇が締まるわけで。

 結果、そんな彼女の細い両腕によって、内側の大きすぎる膨らみが過剰に寄せ上げられていたのだ。


 たわわとした実りを主張する椿原部長の胸は、普段はシャツをパッツリと突っ張らせて存在感を出している。

 しかし左右から寄せ上げられることによって、双方の膨らみがそれぞれの柔らかな輪郭を浮き彫りにさせ、シャツのセンター部分を挟み込んでいた。


 ただでさえ見逃すことができないほどに目立った胸が、殊更に強調されそのボリュームを主張している。

 胸が小さめな人でも寄せて上げればそこそこ大きく見えたりするのだから、大きすぎる人がすればもはやそれは暴力だ。

 なんだこれエッロ。これはこれでパワハラだろう。


 しかもこの体勢、普段拝むことのできないものまで顔を見せていた。

 品方向性な椿原部長は、スーツをバッチリ着こなすキャリアウーマンであらせられるから、シャツのボタンもしっかり止められている。


 だから普通ならば、その首元の僅かな隙間から中身を窺い見ることはできない。

 そのはずなのだが、しかしこの寄せて上げられ、かつそれをほぼ真上から見下ろすアングルからでは状況が違った。


 しっかりと締められている首元のその隙間から、二つの柔和な丘陵が生み出す深淵が覗き見えていたのだ。

 普通ならそんな胸の上部に谷間など生じないだろうが、それもまた規格外の膨らみの成せる技か。

 一度落ちればとっぷりと深みに沈みそうな、底の知れない闇の入り口が垣間見える。


 視線はもちろん、意識までもがその深淵に落ちていきそうだ。

 なにも考えず手を伸ばし、ひとまず指でも差し込んでみたいと、そんな衝動に駆られる。

 恥も外聞も体裁も、もちろん法律さえ無視して飛び込んでしまいたい。

 そう思わせる魔力が、その深みの入り口からは放たれている。


「話、聞いてるの!?」


 しかし目の前に突きつけられた胸に注目しすぎていた俺は、ボケッとしすぎてしまった。

 話を聞いていないのが丸わかりだっただろう俺に、椿原部長はそう声を強める。

 かと思うと、放しかけていたネクタイを右手で強く握り直し、まるで胸倉を掴むがごとく自らにぐいと引き寄せた。


 サービスショットも終了かと思われたが、部長のラッキースケベはとどまるところを知らなかった。

 俺たちに身長差がかなりあるのももはや言わずもがな。その体格さで椿原部長が俺を引き寄せ、胸ぐらを寄せ、にじり寄ってきたらどうなるのか。


 俺は完全に部長に覆い被さるような態勢になり、首を引き吊る彼女は俺を真下から突き上げるように見上げてくる。

 眼前に迫った睨み顔は、なまじ美人なだけになかなか迫力があるわけだけれど、そこにビビるだけの意識の容量が俺にはなかった。

 当たっているからだ。俺の腹に、柔らかいもの二つ、ぐいっと押し付けられているからだ。


 椿原部長は圧をかけるために、俺を引き寄せにじり寄せ、ガンを飛ばしているのだろうが。

 しかしそれをするには彼女の体には起伏がありすぎるわけで。

 胸を張って見上げる部長と前傾姿勢になって見下ろす俺では、接触は必定だった。

 しかしながら、俺に睨みを効かせるのに夢中なのか、椿原部長はこの世界一柔らかな衝突事故にはお気づきになられていないらしい。


 人の体とは思えないむにっとしたとろけるような柔らかさと、しかし確かな弾力で変形に抵抗する圧力感がたまらない。

 そしてこれだけの質量を持ちながらも、接触面の感触が優しく繊細で心地いい。

 布越し、下着越しにも関わらず、そのたぷっとした流動的な感触がダイレクトに俺の体まで響いてきて、その柔らかさに身を蕩されそうだった。

 着衣越しでこれって、直接触ったらどんなことになるんだ。


 椿原部長は間近に俺を睨みつけ、つらつらと罵詈雑言を捲し立てている。

 しかし俺には、そんな些事に意識を向ける余裕などなく、視覚も処理を放棄しているので鋭い眼光に真っ直ぐ視線を合わせられた。

 俺の意識は今全て、腹部に密着している未曾有の柔らかさを感じることに費やされている。

 今ならばきっと、殺されても死んでいることに気づけないかもしれない。


 胸の感触に集中しすぎて、そのたぷたぷの物質を伝播して椿原部長の息遣いや鼓動まで感じるような気がする。

 いやこれは流石にキモいか。いいや今更か。


「いい!? わかったの!?」

「────は、はい! よくわかりました!」


 言い放ちながら突き飛ばされたことで柔らかさの接触は途絶え、俺の意識は急激に目の前の現実に立ち戻った。

 よくわからずに反射的に肯定の意を示してみたが、まぁ的外れな返答にはなっていなかったようだ。

 椿原部長は大きく溜息をついて、とりあえず説教タイムは終了となった。

 あの感触が名残惜しくも、刻み込まれた感覚が俺の腹部で未だ響いている。


「わかったらほら、ぼさっとしてない。あなたには倉庫から備品を運んで欲しいのよ」


 余韻を楽しんでいる俺に、椿原部長は思い出したように言った。

 一応ちゃんと振る業務は用意されていたようだ。

 休憩がまだ半分は残っているけれど、まぁ対価は十分払ってもらったので働くしかないな。

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