~ end up ~ ⑫


 ここで、職員室のドアがスラっと開いた。

女の先生が出てきて、廊下でむらがる女子の雰囲気に気圧けおされ、半歩さがった。


「なに? ……どうしたの?」


手には赤色のマグカップ。

マグカップには歯ブラシがはいっている。


この女の先生がこれから歯磨きをするのは、一目瞭然いちもくりょうぜんだ。


 一瞬いっしゅん静まり返りそうになった空間に、またささやき声の文句もんくだか呪文だかが、どこからとなく沸き起こる。不気味な雰囲気だ。


 紫穂だけが女の先生に声をかけた。

なるべく明るく振舞ふるまうよう心掛けてますというていで。


「先生、給食のあとにちゃんと歯磨きしてるんだ、さすがあ。わたしもいつか先生を見習って、女らしく歯磨きしよう!」


「ハッ! よく云うよ! あんたが、女らしく?」すかさず茶茶ちゃちゃをいれたのは代表だ。


 紫穂は笑って、バカにしてきた代表の背中を叩いた。「そうだよ! なんなら今度、一緒に歯磨きする?」


「いや、遠慮しとく。あんたと歯磨き……?」代表がわざとらしくブルブルと身震いする。


まわりから、どっと笑いがおこった。

同時に、半歩さがっていた先生が、キョロキョロしながら廊下に出てきた。まだ警戒しているのか、腰がひけている。紫穂は笑顔を送った。


「ほら、先生、さっさと歯磨きしてきちゃいなよ。あそこの水道で歯磨きするの?」


「あ、違うの。私はいつも給湯室で歯磨きしてるから……」


「給湯室? この学校に、そんなところあったっけ?」


紫穂の呑気のんきな質問に、この場に居た女子と先生はあきれた顔で紫穂を見、ついで紫穂の背後へ視線をむけた。


視線の先には、壁からえている学級ふだに〝給湯室〟と彫られた文字が刻印してある。


 紫穂は文字を見上げてから、先生に視線を戻した。


「知らなかった!」


 てへっ! とばかりに笑われると、おこれなくなるよなあ、だって、可愛いんもん、紫穂は。


「学校中を走り回っている八鳥さんでも、知らない場所があったのね」先生は苦笑くしょうしながら歩きはじめて、ふと釘をさした。「いたずら、しないでよ。ここの給湯室は先生しか使っちゃいけないんだから、中にも入っちゃダメだからね!」


「あ~、はいはい」気のない返事をして、犬をはらうようにシッシッとする。紫穂の目線はすでに職員室のドアに縛りつけてある。


「先生が歯磨きしてるとこ、見たーい」他の女子が、よくわからない、適当てきとうなことを云って、先生のあいている手を引き、給湯室へ引っぱて行く。すごい連携プレーだ。


 まわりを埋め尽くす他の女子達は、このやりとりにクスクス笑い合い、やがてその声はだんだんと大きなささやき声に変わっていった。


またあの呪文のとばりちる。


 まったばかりの職員室のドアが、またすぐにスラッとあいた。

次は、今度こその・上林先生だ。


 上林先生はさっきとまるで変わらず、ほほを赤らめながら、なぜかやる気勃々ぼつぼつと胸を張り、廊下へいきおいよく歩き出てくる。


その姿を見た女子全員の呪文は瞬時にとまり、シンと静寂せいじゃくを堕とす。


気分よく歩いているのは、上林先生だけだ。


「ほんとみんな、今日は仲いいねぇ……ちょっと前、とおるね」


〝いやはや失敬しっけい〟とばかりに、片手をおがむようにあげたかと思えば、その手が、女子の胸へい寄せられていく。


ぼくは息を飲んだ。


──その刹那せつなだった。


 紫穂が、その手を、今すぐにでもちょん切るような目つきで見て、たたき落とし、


胸をさわられそうになった女子──五十嵐さんの肩をき飛ばした。


 突き飛ばされた五十嵐さんは、痛みで顔をしかめながらも、半歩あとずさりをして、ころばずにみとどまった。


紫穂は今にも上林先生に飛びかからんいきおいだ。

爛々らんらんとするまなこ凝視ぎょうししている。


 上林先生は、紫穂がこの場に居るのを今、始めて知ったらしい。驚きに目を見開いている。その口からはほどなくして怒気どきのにじんだ声が飛び出してきた。


「──八鳥!」


先生はたたはらわれた手首をさすりながら、紫穂にめ寄った。


「先生にむかって、なんだその態度はっ!」


 まったくどうおして、どの口がえているんだよ。今まさに、女生徒の身体をさわろうとした教師さんがさあ。


しかも今回は、目撃者多数だぞ。この先生、それがわかっていないのか?


 詰め寄られた紫穂はひるむどころか、いかかるいきおいで、上林を凝視ぎょうししつづけている。その紫穂が、すこし前傾姿勢ぜんけいしせいように見えた。


──まさか、ほんとに飛びかかる気なんじゃ……!


 ぼくがまたしても息を飲んでるあいだに、先に動いたのは代表だった。

紫穂の身体を止めるようにサッと腕をあげ、牽制けんせいする。


「先生が通りやすいように、道を作っただけですよ、ほら──」流し見せる先は、女生徒が身を引いて出来上がった、道。


モーゼの十戒じっかいのように、見事みごとに人がれている。


 上林は怒りで唇をブルブルさせ、代表を睨みぬいた。紫穂はいつでも飛び出せるらしい。今も上林を食入くいいる目つきで没我ぼつが境地きょうち、集中全開。……よだれが、口の横かられるのを間近まぢかで目撃した五十嵐さんが、ちいさな悲鳴をあげて口をおさえた。


 紫穂がけものにしか見えなくなったころ、上林はいよいよ事態じたいと〝自分の立場〟をり返り考えだしたらしい。


文字通り、振り返りキョロキョロと他の生徒の顔色をうかがいだした。


 ──自分に向けられた紫穂の殺意。

まわりの女子全員からの、軽蔑をこめられた、汚物を見る目つき。


 さすがのできあがった頭でも、充分すぎるほど理解できたらしい。これが自分に向けられた嫌がらせだと。


 自分に対する敵意のあらわれなのだと。


 ちょっと遅すぎる自覚だよな。もっと早く気づけていたら、痴態ちたいをさらさずにすんだものを。



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