ROUTE(1)④


 そしたら、周囲からも笑い声が飛びかいはじめた。


 他の登校班の子たちも、兄さんが蹴り飛ばされる瞬間を見ていたらしい。


 六年生の兄さんに、今までしいたげられてきた下級生たちの、つもりつもったさが晴れたんだ。


 みんなが、兄さんを指差してわらっている。

だけど、蹴り飛ばした紫穂はなにを思ったのか、今度は嗤い声をあげている子たちに向かって、怒鳴りつけた。


「なに勝手に嗤ってんのよ! あんた達には関係ないでしょ! なによ! 今まで自分たちは、なにも手出ししなかったクセに! こういう時にかぎって、アイツをバカにして、指差して嗤うの、そんなのやめてよ! これじゃあ集団でイジメているみたいで、わたし、そーゆーの大っ嫌い!


だいたい、なに自分たちが勝った気になってるの? わたしは、あんたらのためにやったんじゃないんだから、勘違いしないでよ! ──嗤うなあっ!」


 最後の怒鳴り声は、声をはりあげすぎて、かすれていた。

朝の静かな住宅街に、紫穂のすごい剣幕けんまくの怒鳴り声が響いて、その声に気圧された子たちもすっかり口をとじて、


あたりは、朝の静けさらしく、静かにシーンと静まりかえった。


 紫穂は憎々にくにくしさのあまり、頬をピクピクと痙攣けいれんさせている。


みんなは嗤うのをやめて、お互いでお互いをこづき合わせながら、コソコソとまばらに歩きはじめた。


 紫穂はその様子を見届けると、自分もうつむいて歩きはじめた。


 ぼくの横を去りぎわ、紫穂がボソボソと耳打ちしてきた。

ぼくにだけにしか聞こえない声の大きさで。


「あれ、あんたのお兄ちゃんなんでしょう? あんたも、嗤ってる場合じゃないのよ。笑い者にされて、侮辱ぶじょくを受けているお兄ちゃんを、家族のあんたが支えなくて、どうすんのよ。


こういう時は、どんなにムカついてても、弟であるあんたがお兄ちゃんに手を貸して、起こして、支えてあげないと。じゃないと、あのお兄ちゃん、ダメになるよ」


 紫穂は捨て台詞のように云うと、ぼくを残して……いや、正確には、ぼくと兄さんだけを残して、学校へ向かうべく、先に歩いて行ってしまった。


 ぼくは、紫穂に平手打ちでもくらわされた気分になった。


 確かに、云われてみれば、そうだ。紫穂の云うとおりだ。

だけどさ、ついさっきまで敵意をあらわにしていた相手に対して、そいつの……兄さんのこれから先にまで、普通、気なんか使わないし、そこまで頭がまわらないだろう?


 イヤなヤツのこれからまで考えるなんて、信じられないよ、まったく。

紫穂は、本当にどこまでを考えているんだ? ──いや、こんなふうに云うのも違うな。


〝紫穂は、どこまでを考えられるんだ?〟こう問うほうが正しいか。


 ぼくは横目で、歩き過ぎて行く登校班の生徒たちを見ながら、嫌々いやいや兄さんに駆け寄った。


 それから、無残に悶絶もんぜつしている兄さんを起こす手伝いで、嫌々、渋々手を差し伸べた。


 兄さんは、ぼくにすがるような眼差しを向けてきて、今にも泣きだしそうな弱々しい笑みを浮かべた。


この時、ぼくは痛感した。

紫穂が、捨て台詞のように云っていた言葉の意味を。


 今、目の前の兄さんの顔を見ればわかる。

ぼくが手を差し伸べた、こんなささいな手助けが、兄さんにとってどれほど大きな助けだったのかを。


 もし、ぼくも他の子とおなじように嘲笑あざわらいながらこの場をあとにしていたら、一人残された兄さんは、どうなっていたんだろう?


……復讐のみに頭がうめつくされて、どうにかなってしまうか、もしくは、

プライドを傷つけられたせいで家に引きこもってしまうかもしれない。……考えただけで、ゾッとする。


 兄さんは、このやたらと高いプライドのせいで、他の子の助けは〝同情なんかすんな!〟って、手を払ってつっぱねただろうし、そうなると、ここを助けるのは、やっぱり家族である弟のぼくしかいないんだよな。


 ぼくは紫穂の思いやりなのか、なんなのかわからない助言を頭に思い描きながら、兄さんのランドセルや服についた土埃をはらい落としていった。


「……涼、ありがとう」


思いがけずして、兄さんから感謝の言葉をもらった。

ぼくはビックリして、思わず兄さんを凝視しちゃったよ。


 兄さんは、照れくさそうに目をそらして、帽子の上から頭を掻いている。

こんな兄さんを見るのも、始めてだ。


 ぼくは兄さんに、ボソリとあいづちをうった。


「──共食ともぐいは、良くないって事なんだろうね」


「は? なに? なんだって?」


兄さんは首を傾げた。心底不思議そうに。


 たぶん、今ぼくが思っている事を兄さんに説明しても、兄さんが理解するまでかなりの時間がかかると思う。

というか、理解できない可能性のほうがずっと高い。


 だからぼくは、おざなり程度に話しをつけくわえた。


「だから、家族同士仲良くするのが一番で、第一歩って事だよ」


「おまえ、なに云ってんの? 頭でも打ったか?」


兄さんが、自分の腹をさすりながら、ぼくのおつむの心配をしてきて、ぼくは呆れて目をグルッとまわした。


 やっぱりダメだったか。

兄さんには、ぼくの考えがわかってもらえそうにない。


 ぼくは兄さんをあきらめて、学校を目指して歩きはじめた。

兄さんもぼくの横について歩きだしてくる。


 兄さんは、腹の痛みがおさまってくると、文句をぶつくさ云いはじめたけど、ぼくはその念仏ねんぶつをぜんぶ右から左へ聞き流していった。


 今ぼくが考えているのは、紫穂だ。


 いましがた紫穂とした、なにげないやりとり。

今のやりとりだけを見ても、紫穂は自分の記憶から、ぼくっていう存在をすっかり消し去ってしまっているのが、うかがい知れる。


 紫穂が、これまでのぼくとの日々を、すべて忘れたんだ。


 ぼくは、あの日、北海道に行ったまま。──そういう事になっている。紫穂の中では。


 ぼくはきみのそばに戻っていない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る