ROUTE(1)⑤


 紫穂は自分を洗脳して、そう思い込ませるのに成功したんだ。


 ……そうじゃないにしても、人の記憶っていうは、すごす時間と共に、色褪いろあせるように曖昧あいまいになってゆくものみたいだし。


 きみは、自殺を選択するほど精神が追いつめられて、命の危機にあった。

きみが意図的に、ぼくを忘却ぼうきゃくするのに、脳のメカニズムも助力してくれたはずだろう。


だから──紫穂はぼくを忘れられた。


 ……はぁ~。

 ……本当の事を云うと、すごく、淋しい。


 ぼくはこれから、死人のように毎日をすごさなければならないんだね。


 毎日、目立たないように行動して、紫穂の視界にも入らないようにしなくちゃならない。またうっかり、記憶が繋がったりでもしたら、大変だもんな。


…*…


 6月 8日 金曜日


 きみがくれたカブトエビと、ホウネンエビは、全滅してしまったよ。

自然界で生きている生き物を、人工飼育するのは難しい。


もともと、カブトエビもホウネンエビも寿命は長くなくて、図鑑には、生存はせいぜい二週間程度だと書いてあったけど、全滅した理由はそれだけじゃなかった。


……カブトエビが、共食いを始めてしまったんだ。

きみが話した、ザリガニの共食いのとおりに。


弱って動きのにぶくなっている仲間が、まだ動ける強い仲間に食べられる。


 共食いしている光景は、あまりにもおぞましくて、見ていられなかったよ。……ぼくは、飼育に失敗したどころか、カブトエビにひどいおこないをさせてしまって……自分に嫌悪感をいだいたし、落ち込んでる。


 うまく飼育できなかった理由を調べているけど、ぼくはもう二度と、カブトエビを飼育しない。──したくない。


 あんなおぞましい光景を見るのは、もうこりごりだ。


 ……紫穂、きみは、ぼくの存在を認めてくれたけど、ぼくがそばに居るのはこばんだ。死にたくなるほど、ぼくがそばに居るのがイヤと……そう云った。


 ……なあ、どうして、そうなるんだよ、紫穂?


 正直に云うと、きみの自殺の原因が、ぼくにあるのにも、いかりを覚えている。


 きみが死を選択したのにも、ぼくはおこっている。


 ぼく自身が、とことん、紫穂の力になれないのにも……あまつさえ、死に追いつめてしまう存在になってしまったのにも、いかりを覚えている。


 どうしてきみは死を選んだ? この事ばかりが、頭の中で堂々巡どうどうめぐりしている。


 きみに、命懸けの拒絶をされた痛み──絶望的だよ──だとか、

これから先へのやるせなさとか、失った生きる望みだとか……そういう自分の痛む気持ちを抑え込んで、考えを巡らせている。


……もしかしたら、今ぼくが考えを巡らせているのは、ただ単に、受けた心の痛みから逃げているだけなのかもしれない。


 だけど、考えずにはいられない。


きみの残した言葉が、ずっと脳にへばりついているんだ。


 〝なによっ! あんたがいると、今までのわたしが──バカみたいじゃないっ! 入ってこないで! ほうっておいてよーっ!〟


 〝あなたが、あなただとわかってから、わたし……たまらなく、怖くなった〟


 〝あなたといると、自分が、自分でなくなっちゃうみたい……。もう、どうしたらいいのか、ぜんぜんわからない。──今までの、わたしがしてきた事ぜんぶ、なの意味もなくなる。夢も希望も、全部なくなるの……あなたと居ると。……ねえ、どうしてなの?〟


 ……どうしてなんだろうな、こっちが訊きたいくらいだよ。


 〝怖くなった〟って、いったいどうして怖くなったんだよ……。


〝自分が自分でなくなる〟って、どういう事なんだよ……紫穂。


 ぼくは日記を書いているシャーペンで、ノートをトントンと小突こづいて考えた。


 今までの、紫穂がしてきた事ぜんぶ……か。

 ……なんの意味もなくなる。


 この短い言葉のピースに、すべての想いが込められているのであれば、それは──


 ぼくは考えた。

考えを巡らせて、今までの紫穂の生きかたを思い返した。


 今まで紫穂は、父親を殺す、その目的のためだけに生きてきた。

それが、全部なんの意味もなくなる……。

ぼくと居ると。

ぼくが……きみのすべてになるから?


「はっ……」ここまで考えて、ぼくは自嘲に、ため息まじりに鼻で笑った。


だって……まさか、そんな……いくらなんでも、そんなわけがないよな。ぼくが、きみのすべてになるなんて。


 それから、ふと思った。

……ぼくのすべては、きみだよな……って。


 もし、きみがぼくとおなじ感覚になっているのだとしたら──いや、だとしても、この感覚がそんなに怖いものなのか? ──死にたいと思うほど?


 ぼくはため息を吐いた。


 ……わからない。……わからないよ、紫穂。


 だけど、きみにとってぼくとの再会は、死にたいと想わせるほどのものだった。

これだけは、確かな事実だ。


 そして、ぼくは、紫穂がぼくから離れていくのを──記憶さえも消してしまいたくなるほど拒絶されたのを、許した。


だって、そうするしか道は残っていなかったから。


 生きていてほしい。ずっと。死なないでくれ。


 ぼくの心が受けた苦痛は、はっきり云って相当なもので、今だってポッカリあいた大きな穴に、寒々しい風がビュウビュウと吹きすさんでいるけど、


きみを失うと思うと──そう思っただけで、吐き気が込みあげてくる──ぼくがこんな状態になっているのも、仕方なくて、えるしかないんだろう?


 ……なあ、紫穂。ぼくたちは、これから先、どうなるんだ?


 このままずっと、ぼくは北海道に居るままにするしかないのか?


 ……まあ、なんにせよ、きみが生きていてくれて、良かったよ。

今は、ただそれだけだ。


…*…

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