If you jump the boundary ⑨


 紫穂はランドセルをり落として、ぼくをどうにかしようとつかみかかってきたけど、そんなのも関係ない。


 ぼくはあっさり紫穂を押し倒して、馬乗りになって両手を床に押し付けた。


「なによ、あんた! 軟弱なくせに! わたしに勝てるとでも思ってるの! わたしが本気をだせば、あんたなんか──」


わめき散らしながら、ぼくの手を振り払おうとしてるけど、力がほとんど感じられない。たぶん、紫穂は、心身ともに脱力しきっているんだ。

ぼくなんかに、あっさり組みしだかれるほどに。


「邪魔しないでって云ってるでしょうっ!」


ついにきみは怒鳴り声をあげた。


 おびえきった目でぼくを凝視ぎょうしして、ぼくの手を払いのけて、馬乗りになるぼくを突き飛ばすと、壁に向かってあとずさりした。


「どうして死なせてくれないの!」


 ぼくはすっかり頭に血がのぼって、憤慨ふんがいした。


「死なせるわけに、いかないからにきまっているだろう! きみは、ぼくの……大切な、もう一人のぼくなんだぞ!」


 紫穂は挙動不審きょどうふしんに──さむくもないのに、こごえたように歯をガチガチと噛み鳴らせながら──目を右往左往させて、戯言たわごとをぶつくさと云い始めた。


「ここで死なないと……! 家で自殺なんかしたって、アイツがわらうだけなんだから! わたしのつめたくなった死体を見おろして、それできっと見下みくだして嗤うんだ! ──そんなの絶対に許せない! そんな死にざまだけはイヤ! だから、世間から目を引く場所で死なないと! アイツを困らせてやるんだ!」


 紫穂が正気を失っているように見えるのは、ぼくだけか?


 ぼくは、痛々しいほど憔悴しょうすいしきっている紫穂のすぐそばにひざまずいて、ブルブル震えているきみを抱きしめた。


「自殺をしたら、輪廻転生りんねてんせいができなくなるよ、それでもいいの?」


自分でも、ぼくはなにを口走くちばしっているのだろうと思ったよ。

だけど、なぜだろう、自然と口から出てきてしまう。


「そんなの、迷信よ!」紫穂は、自分に云い聞かせるように叫んだ。「わたしは宗教なんか信じてないんだから! わたしを、こんな事になるまでほったらかしにして、神も仏もあるもんか!」


 そりゃ、そうだ。ごもっともだ。

ぼくだって神様なんか信じちゃいない。


 だけど、輪廻転生はあると……そう思うんだ。


 でも今のきみにこんな話しをしたって、聞く耳を持ってくれないだろうから、

ぼくは自分に冷静になれと云い聞かせながら、論理的な考えをとなえ始めた。


 全部、病院で読んだ参考書の受け売りろんだ。

だけど今のきみには、この理論がうってつけだろう? だってきみは、誰よりも優しいんだから。


「……きみの命は、きみのためにあるわけじゃないんだよ? 知ってた? きみの命は、地球のためにあるんだ」


ぼくのささやき声に、一瞬、紫穂の体の震えが止まった。


 いいぞ、このまま正気を取り戻せ。

 ぼくはそう願いながら、理論を唱えつづけた。


「きみは今まで、命ある植物を食べて、命ある動物も食べて生きてきた。──いいか? きみが、自分から命をつって事は、今まできみが食べてきた命を、ないがしろにするって事なんだよ。


 ……きみはさ、きみが生きるために死んでいった動物たちの命を、なんだと思っているの?


 きみが食べて、きみの血と肉になった命たちを、みにじるの? ──もっと云えば、これはきみだけの話しじゃないんだ。


きみを産んだお母さんも、その上のお婆ちゃんも、もっと上の先祖たちも、みんな生き物を殺して食べて、それで生きていって、きみっていう存在が地球に誕生したんだ。


 みんな、多くの生き物の命の上にり立っている。──ぼくもそうだ。


 ……その数え切れない、犠牲になった命たちを、きみは全部、無駄にするの?


きみために命を捧げ、きみの血と肉になった生き物たちの魂は、きみにこんな命の終わりかたをされて、よろこぶだろうか?」


 紫穂の息使いが荒くなった。


「……うらまれる……わたし、きっと恨まれる。おれたちの命をかえせ……って。……みんな、ゆるしてくれるわけない」


 紫穂の生温なまあたたかい涙が、紫穂を抱きしめてくっついているぼくの耳へ流れてきた。


「……こんな事、今云われたって、ずるいじゃない……こんなのって、ずるい……」


紫穂はすすり泣きながら、か細い声でなげいた。「こんな事云われたら……こんな事、いま教えられたら、死ねなくなるじゃない……! どうして死なせてくれないの? わたしは──望まれていないのに!」


「ぼくがきみを望んでいるよ」ぼくはハッキリ云いきった。「きみに、生きていてもらいたい。……だから」


 ぼくは、抱きしめていた紫穂を体から離して、紫穂の両肩をしっかりと支えた。

じゃないと、きみの体にはまったく力が入っていなくて、ぼくが支えていないと、弱々しく倒れてしまいそうだったから。


 魂の抜けかけている、うつろな眼差まなざしのきみを見ていると、ぼくの胸がチリチリと焼けるように痛む。


痛む胸の場所はちょうど、きみが、本当のきみをぼくにくれた場所だ。……ぼくは痛む胸に手をあてた。


「ぼくにくれた、本当のきみを、大切なきみにかえすよ……だから、生きて」


「──イヤッ!」


突然、紫穂の体に力が戻った。

今度はしっかりつかまえていないと、きみはどこかへ逃げて行ってしまいそうだ。──だけど、そう思ったけど、逆にぼくは、紫穂に胸ぐらをつかまれてしまった。


「還さないでいい! 本当のわたしは、あなたが持っていて! じゃないと──今のわたしが、本当のわたしを還してもらったって──本当のわたしがけがれてしまう!」


すがる眼差しでぼくを見つめるきみの瞳は、涙でずぶ濡れだ。

ぼくの胸が、ますますズキズキと痛みだしている。


 紫穂は、喘息ぜんそく患者のように、ゼイゼイと息をらしながら、ボソボソとつぶやいた。


「……だいたい、どうして今さらになって、わたしの前にあらわれたりなんかしたの?」


「手術が、うまくいったんだ……」


 紫穂は嗚咽声おえつごえをあげて涙を流すと、ぼくの胸に──心臓の真上に、手を置いた。


 くちびるを震えさせて、ぼくの鼓動を聞くために顔をかたむけ、耳をませている。


 それから、紫穂は泣きながらぼくを抱きしめてきた。

ぼくも、紫穂を抱きしめた。


これが、この抱きしめ合う姿が……ぼくたちに一番合った姿なんだ。


「あなたが、あなただとわかってから、わたし……たまらなく、怖くなった」


泣く紫穂の体が、小刻こきざみに震えている。


「あなたといると、自分が、自分でなくなっちゃうみたい……。もう、どうしたらいいのか、ぜんぜんわからない。──今までの、わたしがしてきた事ぜんぶ、なの意味もなくなる。夢も希望も、全部なくなるの……あなたと居ると。……ねえ、どうしてなの?」


 ぼくは、紫穂を強く抱きしめて、校長室でのやり取りをおもい出した。


 紫穂は、こう云っていたよな……。


〝なによっ! あんたがいると、今までのわたしが──バカみたいじゃないっ! 入ってこないで! ほうっておいてよーっ!〟


 そうか、紫穂。

そういう事だったんだな。


 紫穂、きみは、ぼくがそばに居ると、つらくなるんだ……。

だったら──


「紫穂……きみがつらいなら、ぼくの事を忘れていい」


 紫穂はすすり泣くか細い声で、ささやくように、なげいた。


「あなたの、このあたたかいぬくもりも、なにもかも、全部を?」


 紫穂が、ことさら強くぼくを抱きしめてきた。


 ぼくは、自分の心がえぐれていく痛みを感じながら、声をしぼり出した。


「……うん……いいよ、忘れていい。……そうすれば、きみはつらくならずにすむだろう?」


 ぼくだってつらいよ……。

だけど、こうしないと、きみの生きつづけようとする意志が、粉々こなごなくだけてしまうんだろう? だったら──。


 ぼくのこの痛みと引き換えに、きみはぼくを忘れたらいい。

それできみが生きつづけてくれるなら。


「わたしのあなたは、北海道にいる……。北海道にいるって事にするの……」


きみは泣きながら、喉を押しつぶした声で、となえるようにつぶやき出した。……自分の記憶に、暗示あんじをかけているんだ。


 ぼくは紫穂の背中をさすって、頭も抱きくるめた。


「うん……ぼくは、北海道にいるままだ。……それでいい」


 紫穂が、ぼくの背中にまわした手で、ぼくにしがみついて、むせび泣いている。


 ……そうさ。いいさ。

 きみはこのまま、ぼくを忘れたらいい。

 いくらでも記憶をぬりかえて、記憶の改竄かいざんをすればいい。


 きみの記憶からぼくが消えても、かまわない。そうさ、きみが生きてくれるなら、なんだっていいんだ。


 きみがぼくを忘れても、ぼくは今までと一緒だ。


 今までも、そしてこれからもずっと、きみのそばにいる。

 きみのそばで、ずっときみを見守っているから。


…*…


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る