If you jump the boundary ⑤


 その日、ぼくは家に帰ってから日記帳を開いた。


日記を書こうと、今日の出来事をふり返ってみたけど、きみとのやりとりが、ぼんやりしている。……ぼんやりしかけている。


 ぼくは、図書館で読んだ本を思い出した。

そうか、これかと……これが、そうなのかと。


 ──人は、ショックな出来事があると、脳細胞が破壊されて、記憶が抹消まっしょうされる。


 生存や、正気な精神をたもつための、防衛本能のメカニズム。

……本当に、よくできているよ。


 自分のこの身に降りそそいでみて、ようやくわかった。ぼくにも。

この強烈な、ショックさが。


 頭が……思考が、ぼんやりする。なにも考えられない。……それなのに、きみは、いったいどうやって──どうやって、自分っていう自我じがをたもっていられたんだ?


 ぼくは……ショックだ。きみから拒絶されて。


 きみは、せっかく記憶が結びついたというのに、それをこばんだんだ。


ぼくを拒んだ。

……ぼくは、拒絶されたんだ、きみから。


 おびえる眼差まなざしで、ぼくをふり返り見ながら、きみは、去って行った。


──だけど、拒絶された以上に……ぼくはきみが、心配なんだ。


 きみには、ショックな出来事が、降りそそぎすぎている。それが心配なんだ。


そのうえ、みずからわざわざ進んで、厄介やっかいどころへ首を突っ込もうとする。


きみは、毎日、父親から暴力を受けているのに、それなのに、これ以上ストレスを積み重ねるなんて……。きみは、きみ自身の命を、けずっているんじゃないのか? 大丈夫なのか?


 きみの事を考えると、ひとりでに涙が出てくるよ。


 ……ぼくは、涙をぬぐいながら、きみへの想いの日記をしたためていった。


…*…


 その後の学校生活の日々は、退屈とは無縁のものだった。


問題児ばかりの三年生が、なにかにつけて騒ぎを起こすから。


もっぱら、騒ぎの中心はもちろん、決まってきみなんだけど。


 とりわけ、全校生徒を騒然そうぜんにさせた衝撃的な事件は、紫穂、きみが起こした。


きみが起こした、自殺騒動だ。


 ぼくがその話しを耳にした時、きみは、ぼくがどう想ったと思う?

どう感じたと思う?


 ……ぼくがその話しを植田から聞かされたのは、その日の昼休みだった。


 植田は大慌おおあわてで、昼休みの教室に戻ってきた。


ぼくは教室の窓辺で、椅子の背もたれに寄りかかって、ぼんやりしているだけだった。……まだ、きみから拒絶されたショックから立ちなおれなくて。


「おい! 鳥海、大変だ!」


植田は肩で息をしながら、椅子に座るぼくのすぐ横に駆けつけた。


「八鳥が──自殺しようとしたんだって!」


「……はあ?」ぼくの頭が、真っ白になった。


植田は息継ぎしながら、つばをゴクリと飲み込んで、もう一度声を大にして云った。


「だから! 八鳥が、自殺しようとしたんだ!」


昼休みで、にぎわっていたクラスがシーンと静まり返った。


 遅れて、クラスメイトのヒソヒソ話が耳に届く。


「……ウソだろ? あの、八鳥が?」

「え……なにがあったの?」

「自殺って、どこで? え……この学校で?」


 ぼくの思考が、少しづつ動き始めて、クラスメイトのヒソヒソ声と同調した。


 紫穂が、自殺しようとした……?

 どこで? どうやって?


 どうして? とは、思わなかった。


紫穂が自殺をしようとする理由なんて、わかりきっていたから。


 あの父親だ。

あの、家族だ。

あの家族が、紫穂を死ぬようにしむけているんだ……!


あの家族が、紫穂を追いつめた!


 考えにいたったぼくは、いかりを覚えた。

底の無い、腹の底からグツグツとき、煮えたぎる怒り。


 気づけば、ぼくは立ちあがっていた。「──紫穂は、どこにいるの?」


 植田が、顔をしぶらせて、あとずさりした。


「紫穂? ……鳥海、おまえ、八鳥の事を、下の名前で呼んでるの?」


 ぼくは思わず、植田の胸ぐらをつかみそうになったけど、一歩つめ寄ったところで、ギリギリ理性が働いた。


「呼びかたなんて、今はどうでもいいだろう? ──紫穂は、どこにいるんだよ?」


ぼくはもう一度、植田を問いただした。


 植田はさらにあとずさりして、目を上下に往来ゆききさせ、たじろぎながら、つっかえて云った。


「八鳥は、今、校長室にいるって、そう聞いた」


「誰から?」


ぼくは、離れて行く植田につめ寄りながら訊いた。


自覚はしてる。今のぼくは、正気でもないし、尋常じゃないって。

だけど、それを誤魔化したりする余裕は、これっぽっちも無いんだ。


 植田が後ろの席にぶつかって、つまずいた。

ぼくは植田と、鼻の先がこすれ合うほど近づいて、同じ質問を繰り返した。


「誰から聞いたんだよ?」


 ぼくに気圧けおされた植田が、わめくように叫んだ。


「知ってるヤツが、みんな云ってるよ! 八鳥が屋上から飛び降り自殺しようとして──それが未遂に終わって! ──今は校長室に居るって!」


 ぼくは怒りで、どうかしているんだ。

植田は悪くないのに、ぼくは植田をめる口調で問いただした。


「どうして保健室じゃないんだよ?」


「──んなもん知るかよっ! なんなんだよ、鳥海! いったい、どうしたんだよ!」


 どうしたもこうしたもあるか! 紫穂が、死のうとしたんだぞ……!

 ぼくに、あれだけ生きろと云っておきながら。


 革新したいっていう、未来への願望が人一倍強い紫穂が。


 なにがなんでも生き延びて、し違えてでもいいから父親を殺すと吐き捨てていた紫穂が。


 それを全部ぼうにふって、自分の命を、自分でとうとしたんだぞ……!


 ……それに、なんで校長室なんだよ。

こんな事があったら普通、保健室だろう!


 保健の先生は、児童の心のケアセラピストの役もになっているはずだろう? それなのに、どうして校長室なんだよ!



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