If you jump the boundary ④


 云いきると同時に、紫穂はまた地面を蹴飛ばした。

ぼくは頭の中で紫穂の話しを整理した。


「きみはさ……街宣車をくすためだけに、選挙に立候補して、政治家になるの? 学校の問題は?」


 ぼくの問いに、紫穂は鼻筋に皺を寄せた。


「一人につき、なにか一つの議案がとおれば、〝おんの字〟みたいじゃない、政治家なんて」紫穂は嫌気いやけたっぷりにかぶりをふった。「よくばって、あれもこれもと意見を云えるような会議じゃない。


だって、あなたも見た事あるでしょう? あのヤジの飛ばし合いに、横槍よこやりの入れ合い。


中には、つばを飛ばしながら、わめいてる人もいたし……居眠りぶっこいてるヤツも見た事がある。──これで、学校の授業中に居眠りするな! とか云うんだから、ほんと、頭がおかしいわ。


 なにが会議よ。あんなのの中で、わたしの意見がいくつも通ると思う? 問題は山積みなのに、文句ばっかり云い合ってる場合じゃないってんのよ。


ヤジを出すくらいなら、まともな意見を云えって! わたしはあの国会の会議を見るたんびに、そう思ってる」紫穂は、遠くを睨み飛ばした。「──もし、わたしが今考えている二つの法案が通ったら、それこそわたしは〝大人しく〟消え失せてやるわよ」


「消え失せるって……どういう意味?」ぼくは慎重に訊いた。


このあいだ、暗殺されるかもしれないっていう話しを聞いたあとだし、心配でしかたないよ。


ぼくはきみに死んでほしくないんだ。というか……死なせてたまるか! こんな汚い社会のために、命をささげないでくれ……!


「……ねえ」紫穂が、考え深げな声をあげた。


眼は、まるでぼくをうたがっているような目つき。


「あなた、わたしと前に、どこかで会ってる? なんだか、始めて話したような気がしない……」


紫穂が目をギュッとつむって、記憶をさかのぼり始めてる。


ぼくはまごついた。


 どうしよう。紫穂の記憶が、結びつくかもしれない。──でも、そのあとは、どうなるんだ? きみはやっぱり、ぼくを遠ざけるのか? それとも、泣いて再会をよろこんでくれるのか?


「んん~……どこで会ってる? 学校? じゃ、ないわよね?」


 紫穂が記憶をしぼり出しているその時、予鈴が鳴り響いた。


 ぼくは思わず、空をあおぎ見てしまったよ。──なんだよ! もう少しだったのに!


 どうして休み時間はこんなにも短いんだ!


 紫穂は鉄棒から離れて、体向きを校舎へ流していった。

だけど意識は、まさぐりかけている記憶から離れていないようで、表情は考えこんでいる顔つきのままだ。


……紫穂、どうかこのまま、ぼくをおもい出してくれ。頼むよ。


 ぼくは、つばをゴクリと飲みくだして、一か八かの賭けに出た。


「図書館で、ぼくにバッハを教えてくれたのは、きみだろう?」


 紫穂の目が、みるみる大きくなって見開みひらかれてゆく。……記憶が、繋がったんだ。


 ぼくは、紫穂の感情をひとつも見逃すまいとして、食い入るように紫穂の表情を見つめた。


顔だけじゃない。ぼくの視界にはいる、紫穂の全身のすべてを、自分の持ちうる全神経をくまなくそそいで見入った。


 紫穂の目が驚きに、大きく見開かれている。

唇が、薄く開いているけど、言葉は出てきそうもない。


紫穂が、にぎりこぶしを作った。……そして、かなしげに悲痛に眉根を寄せると、逃げるようにきびすを返した。


髪の毛とスカートが、紫穂の動きにまかれてあとを追う。


 紫穂が、ぼくのもとから、走り去った。──逃げるように。


 途中、何度かこっちを振り返り見てるけど、その表情は、どこかおびえているようにも見える。


 ぼくはただ、茫然ぼうぜんと立ちつくしていた。


 紫穂が、ぼくのもとから逃げた──。


この事実だけが、ぼくの心にグサリと突き刺さって、残った。


…*…


 鳥海先輩の日記を読む、わたしの手が、小刻みに震えてる。


 涙は、さっきからひっきりなしに、わたしの頬を濡らして、落ちていってる。


 ……悪気わるぎはなかったの。

 

許して──


 わたしは、怖かった……鳥海先輩といるのが、怖かったの。


 一緒にいたいと、ずっと想ってた。だけど、怖かったの。……わたしが、わたしじゃなくなりそうで。


 今までのかさねを、全部ぼうにふるう勇気も、無かった。


 あの頃のわたしが生存できていたのは、父親への仇怨きゅうえんたる殺意を、生きるかてにしていたから。


 だけど、あなたといると、その糧が、なんの意味もしめさなくなるのが、わかった。


 わたしから、わたしが信じてきた生きる理由と意味を、ぜんぶ取り上げられて、無くなるのもイヤだったし、


わたしの産まれてきたわけだとか、これからのわたしだとか、そういうの全部が、あなたと一結ひとむすびになる事で、


今まで経験した事の無い、予想もできないほど大きな〝なにか〟に、すべてを方向転換されてしまうのが……怖かった。


 今までの、わたしが受けた屈辱や痛みだとか、殺されるかもしれないっていう恐怖や、容赦ようしゃ無くき落とされた孤独への腹癒はらいせ。


それらをせずに──父親へのむくいをはらさずに──今までコツコツと積み重ね、ふくらませ育ててきた唾棄だき憎悪ぞうおを、全部ふいにするのかと思うと、口惜くちおしさどころか、怨嗟えんさが喉奥からあふれ出てきた。


 だけど、あなたと、共にあゆむ事で、わたしの今までのそれらも、全部どうでもよくなってしまうのも、わかっていたの。……だから、怖かった。


 わたしには、別の道がある──。

それが、あなたに出逢ってわかった時、たまらなく怖かった。


……うしろめたさもあった。


あなたや、自分の魂の声にそむいているのを、心の片隅かたすみで感じていたから。


自分の感じているものや、魂の声を認めるのも、怖かった。


 ──これが運命という大きな運河なら、わたしはその大きな運河に身をまかせる勇気が……わたしには無かったの。


……ごめんなさい……!


…*…

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る