I've been patient ⑩
けど、紫穂のほうといえば、眉を寄せた
どうやら紫穂は、イントロを聴いただけで、自分の好みの曲かどうかがわかるらしい。
それから、何度かスキップボタンを押したところで、その指の動きは止まった。
流れている曲に
バッハの曲を聴きながら、ぼくは紫穂に
紫穂は、ぼくの視線に気づいたのか、薄目を開けて、ぼくのほうに向いている耳のヘッドホンを浮かせると、極上の
そんなに良い曲なのか、G線上のアリアっていうのは。
ぼくは紫穂に
──
清らかで美しい音……。
音曲……
だけど、これは……この曲は、音楽の部類からはみだしている。
これは、音楽なんかじゃない。そんなカテゴリーなんかじゃない。……これは、もっと違う。……これは……これが、芸術?
そう、これは、この音は芸術だ。
音楽という力を使った──あるいは、音楽の楽器という道具を使った──芸術。
人が表現する芸術の、集大成。
こんなに素晴らしい音が、はるか昔に仕上げられていただなんて──。
…*…
G線上のアリアを聴き終わって、ぼくは目を開けた……そう、目を開けたんだ。知らず知らずのうちに、ぼくは目をつむっていた。
目を開けて、隣りに座る紫穂へ目を向けた。
紫穂は、満足げな笑顔で
ぼくもヘッドホンをはずした。
紫穂は五線のメモ紙をぼくに差し出しながら、訊いてきた。
「……どうだった?」
ぼくはメモをもらいつつ、感動の真っ只中にいる胸の内を、どう言葉で返そうか、迷った。
この心境を、言葉でどう表現したらいいんだ? とても一言では云い
「すごく……よすぎて、言葉にならない。……天空にいる心地だよ」
ぼくは感覚的な──それでいて、実感した──感想をしぼりだした。
「そうでしょう?」紫穂は極上の
それから、ぼくが机に置いた〝火の鳥〟の本へ、いわくありげな視線を流した。
「……火の鳥も、好きなの?」
なんだか紫穂は、火の鳥の本の内容も知っているふうな口ぶりだ。
ぼくは〝火の鳥〟を読んでいるのを気恥ずかしく感じながら、もごもごと返した。
「ああ、うん。……好きだよ、火の鳥。……きみは、好きじゃないの?」
ぼくが訊くと、紫穂の顔から笑みが消えた。……なんだか悲しそうな表情で、遠くを見るように、火の鳥を見ている。
そして、本に目を落としたまま、紫穂はポツリポツリと感想を云った。
「火の鳥を読んでいると、わたし、いつも苦しくなっちゃうの。……だから、いつも最後まで読めない。
見ていられなくなっちゃって、途中で投げ出しちゃうの。……わたしは、火の鳥が
永遠に生きつづけて、人間の汚いところばっかりを見て……それはそれで可哀想だとは思うけど、だからって、人間がもがき苦しんでいるのを、助けもせず、ただ見ているだけなんて、
紫穂の、火の鳥の解釈に、ぼくは驚いた。
こんな感想もあるのか……。
……火の鳥が、
「火の鳥の、どこを読んだの?」ぼくは、興味をそそられながら、それとなく、静かな口調で訊いた。
「古代エジプトのところと、宇宙のところ……」
紫穂は、火の鳥の内容を
「宇宙の話しは、酷すぎる……あんなのって、ない……絶望ばっかりじゃない。人が生きている意味なんて、どこにもないじゃない。
宇宙のところ……最終章の部分だな。
そうか、あの話しは、紫穂の心にはこたえたってわけか……。まあ、確かに……火の鳥は、悲劇の連鎖でしかないよね。
「ハッピーエンドとか、希望とか、きみがなにがしかの救いを求めてこの本を読んだのだとしたら……うん、そうだね、それはガッカリしたかもしれないね」
ぼくは紫穂を、なんとか励まそうとした。
「もし、火の鳥の物語に〝自分がこの世に産まれてきた訳〟〝生きる意味〟〝人は良心的な生き物に変われるのか?〟っていう答えを求めて読んだのだとしたら、絶望感しか残らないかもしれないね……」
「……そうなの」紫穂は哀しげにうなずいたら、それっきり。火の鳥を見つめたまま、だまりこくってしまった。
ぼくも本を見つめて、それから、バッハのCDジャケットにも目を落とした。
少なからず、この世界は、苦痛や絶望ばかりなんかじゃない。
だって、こんなにも素晴らしい音楽っていう芸術を生み出せる人がいて……。ぼくらは産まれて、生きているからこそ、この素晴らしい音楽に出逢えたんだ。
「この本は、もう読まないの?」ぼくは、ダメもとで訊いてみた。
「……時間がたてば」紫穂は歯を噛みしめるように返してきた。「今は、まだ読む気になれない」
「そっか……」淋しげにあいづちだけして、ぼくは紫穂に差し出された五線の紙切れを指差した。「この芸術的なメモは、もらっていいの?」
ぼくのジョークに、紫穂は
「ここには、鉛筆立てと、貸し出し用の紙も置いてあるの」紫穂は、試聴機のわきを指差した。
確かに、そこには鉛筆立てが二つ並んでいる。一つには、鉛筆が。
そしてもう一つには、〝七夕〟で使うような短冊型の紙切れが、レストランのペーパーナプキンみたにセットされてある。
紫穂は楽しそうに話しをつづけた。
「この鉛筆で、お勧めの曲の番号を、メモにつけたしといた。もしよかったら、聴いてみて。CDを借りるなら、本を借りるのとは違って──」
「そこの受付が、CD専用ってわけだろう?」
ぼくが先に答えを云い当てると、紫穂は〝話す手間がはぶけて嬉しい〟といった具合に、両眉をあげて、顔いっぱいに笑顔を広げてくれた。
ぼくも紫穂が笑顔になってくれて、嬉しいよ。
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