I've been patient ⑨


 紫穂は唇をとんがらせて、すねたように云い訳を始めた。


「音楽の先生が、『G線上のアリアが好きなら、他の曲も好きなんじゃない?』って云って、勝手にすすめてきたの。


もう、何語を喋っているのか、わけがわからないくらいペチャクチャお喋りしだしちゃって……だから、とりあえず、勧められた曲の題名らしきモノを……まあ、わたしなりの解釈かいしゃくでメモしただけ」


 という事は、このメモを見るに、紫穂は音楽の先生のお喋りを、話し半分に聞いていただけなのか。


「バッハなら、Bから始まるんじゃないかな? クラシック音楽のコーナーの、アルファベット順に探してみたら?」


ぼくがCDを探すヒントを出すと、紫穂はバカ正直に、そっちを探し始めた。


……なんだ、やっぱり紫穂は、素直なんじゃないか。

ちゃんと口を利けば、普通に会話ができるし、ケンカにもならない。


「B……バッハ……B……」

紫穂はぶつくさ云いながら、Bの欄をジィッと睨み探している。

ぼくもバッハを探そうと、どさくさまぎれに紫穂の隣りに並んだ。


 こんなに至近距離で隣り合うと、ドキドキするな……。


「ねえ」紫穂が早くも、をあげたような、降参する声をあげた。「これ、外国語ばっかりで、どれがバッハだか、ぜんぜんわからない!」


 声高に云うから、ぼくは慌ててシーッと人差し指を唇にあてた。


 紫穂も〝やっば!〟といった具合で、周りを見渡して首をすくめた。……可愛いなあ。


 それにしても、バッハのスペルは、実はぼくもわからないんだよね。

バッハだから、Bから始まるくらいしか、わからない。


「……ねえ、あなたって、外国語が読めるの?」


訊かれて、ぼくは唇をすぼめた。「……読めない」


 紫穂は安心したのか、ニコリと笑った。

……可愛い。


「やっぱり外国語って、わからないよね? 図書館の人に訊いてみようかな」


 云うが早いか、紫穂は早速〝音楽・試聴コーナー〟専用の受付に向かった。


 受付の女の人は、これまでのぼくらの会話を聞いていたのか、笑顔ですっくと立ち上がった。


「あのう……バッハを探しているんですけど、見つからないんです。どこにありますか?」


 ……!

 紫穂が、敬語を使った……!


 なんだ、紫穂は、ちゃんと敬語も使えるんじゃないか!


 ぼくが驚いていると、受付の女の人はカウンターから出てきて、紫穂のメモを受け取った。

歩きながらメモを見て……クスリと笑っている。やっぱり、笑っちゃうよなあ、そのふざけたメモを見ると。


「バッハは、ここにありますよ──Bach」女の人は、Bの欄を指示した。「この素晴らしいメモを見るかぎりだと、お探しの曲はこのCDに全部入っていますから」


と、一枚のディスクを取り出して、ぼくらのうしろに目をやった。「あそこの個別の試聴機で聴いてみて。聴けば、すぐにこの曲だってわかると思いますよ」


したしみ深い眼差しで、微笑ほほえましげに紫穂を見つめ、CDとメモを手渡した。


 紫穂は目を耀かせて、バッハのCDジャケットを見つめている。

──そんなに、感激するほど嬉しいのか、バッハの曲が聴けるのは。


 女の人が受付のカウンターへ戻って行った。……なんだか、ぼくもバッハが聴きたくなってきちゃったなぁ。


ぼくも紫穂をマネて、バッハを聴いてみようかな……。


「あなたも聴く?」紫穂がふり返って、ウキウキと訊いてきた。「同じCDが、あと二枚もある」


 云われて見てみれば、確かに同じCDがあと二枚もあった。

何人かが同時に借りても〝貸し出し中〟にならないようにするためか……。


「うん」ぼくは、つっかえながら云った。「ぼくも、聴いてみようかな……」云ってすぐに、紫穂と同じCDを手に取る。


 紫穂はもう、個別になっている試聴機へ目をやっていて、ぼくの服のそでをツンツンとひっぱりながら、CDを持つ手で一角を指示した。


「あそこの席なら、二人で並んで座れるよ」


 遊びに誘われたように云われて、ぼくは嬉しく思った。


「そうだね、あそこで聴こうか」落ち着いた声の調子を意識して出したけど、胸では心臓がドキドキ高鳴っているし、足運びは嬉しさに舞いあがってしまいそうだ。


 ぼくたちは、それぞれの試聴機の席に、目配せし合いながら座った──しかも、二人してニヤつきながら。


だって、この試聴機の椅子が、大人が(先生とかが)座るような、キャスター付きの、フカフカの、クルクル回る回転式の椅子なんだ!


普段なら、子供が座ると怒られてしまいそうな椅子に、ぼくらが座れるなんて、すごく特別に感じる。──それも、紫穂と二人並んでだから、なお嬉しい。


 こんなに特別な気分を味わったのは、生まれて初めてだ。


それにこの〝試聴機〟を始めて見る新鮮さ。それと同時に、嬉しさからくるドキドキとで、ぼくは……高揚こうようした。


 試聴機の机に〝火の鳥〟の本を置いて、回転式の椅子に苦労しながら座って──だって、いちいち動くんだもん、この椅子──黒いヘッドホンを被った。


 それから二人同時に、機械へCDをセットして、再生ボタンを押す。──すぐにバッハの曲が流れだして……ぼくは驚いた。


だって、始めの一曲目から、聞いた事のある曲だったから。


 ……そうか、これが、バッハだったのか──。


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