I've been patient ⑧
そのせいか、人目を気にした紫穂のお母さんらしき人が、
目を泳がせながら、ソワソワと居心地悪そうに、
そこへ、さらに紫穂が追い打ちの文句をつけたす。
「まさか、図書館で、手をあげて〝
せいぜい、ウチに帰ってから──人目のない、誰も見ていないようなところで──お父さんにチクッて、こっぴどい
だから今日、わたしはまた、お父さんから半殺しの
だから、図書館に居るあいだだけは、わたしの身の安全は保障されているってわけ!
──ねえ、お母さんにわかる? わたしにとって、図書館は安らぎの場所なの! だからお母さんは、わたしの
紫穂の怒声は、涙声もにじませたような、悲痛な声だった。
その声と気迫で、紫穂は母親をキッパリと
ぼくは思った。──やっぱり、この人が、紫穂のお母さんだったのかと。
みんなが注目している前で、家庭内環境を
「べつに、私は……ケチをつけてるわけじゃなくて、あんたがクラシック音楽に興味があるのが、不思議に思っただけで……」
紫穂は、ここが図書館で、大勢から注目されてしまっている事にも腹をくくったのか、開き直ったかのように鼻を鳴らした。
「フン! ──お母さんは、わたしの考えている事なんて、まったく理解してくれないもんね! 理解できないのか、理解したくないのかは知らないけど!
とにかく、今は──この図書館っていう空間でだけは──わたしの好きにさせてちょうだい! しばらくは、わたしの事をほおっておいて! お母さんは、いつものあの席で、どうせ読書をするんでしょう? 現実逃避をするためにね!」
紫穂は学習コーナーのわきに
そして素早くお母さんへ視線を戻す。
「わたしも、音楽が聴きおわったら、そこに行くから、それまでは、いつものように、あの日当たりのいい席で、現実逃避の読書でもして、頭の中をお花畑でいっぱいにしていればいいのよ!」
紫穂は云いきると、カンカンになって
図書館らしい静けさといえば、それまでだけど、本のページをめくる音のひとつも聞えてこない。
受付の館員さんでさえ、本のバーコードを読み取る作業を忘れて、紫穂たち親子を
わざわざ足を止めて聞き耳を立てていた人も、
だって、目がまんまるになっていて、唇は真一文字になっているもの。
一を云って、十を返されてしまった紫穂のお母さんは、この場に居られなくなって、急ぎ足でトイレのある方向へ歩き出した。
ぼくは、受付で並んでいた列から離れて、紫穂の入った〝音楽・試聴コーナー〟へ、あとを追うように向かった。
〝音楽・試聴コーナー〟の部屋は、薄暗くて、シーンとしていた。
この場にいる人みんなが、紫穂を目で追っている。紫穂は〝かまいやしない〟といった具合で、CDの棚を睨みつけていた。──大きなため息を吐いたりもして。
それから、おもむろに、ポケットに手をつっこんで、一枚の紙の
「はぁ〜あ……バッハは、どこかな……」
紫穂は、ほとほと疲れ切った具合の口調でひとりごちると、CDを探しだした。
──バッハ。
……バッハか。
うん。
確かに、バッハはクラシック音楽だな。
紫穂が、そんな音楽に興味を
とはいえ、ぼくもバッハは名前くらいしか知らない。
彼がどんな曲を創り上げたのかまでは、わからない……。バッハの名前と、曲が結びつかない。……ベートーベンの運命なら、ぼくも知っているけど。
それなのに、選曲をした紫穂本人も、CDを探すのは不慣れなようで、CDの棚の前でウロウロしている。
ぼくはうしろから棚をザッと流し見て、さりげなく紫穂の隣りに近づいて、声をかけた。
「作者順に並んでいるんだよ」と、棚を見ながら、紫穂を
紫穂は目をまるくさせた、驚いた顔で──見知らぬ人から声をかけられて、驚いているんだ──ぼくのほうを見てるけど、ぼくはいたって冷静に、紫穂が持つ
紙切れは、音楽の授業で使う、五線ノートを使った紙切れだった。
五線を無視して、鉛筆で
≪バッハ 〝G線上のマリア〟〝チェロ〟
〝主よ、アーメン!〟〝ナントッカー〟≫
と、走り書きしてある。
ぼくは両眉をあげて、そのメモを見つめた。
この〝ナントッカー〟って、なんだろう? これ、絶対に曲名と違うよね?
「バッハの、この曲を探しているの?」ぼくは笑いをこらえながら訊いた。
紫穂はぼくにつられたのか、自分の紙切れに目を落とした。
「──うん。音楽の先生に訊いたんだけど、バッハの、この〝G線上のアリア〟っていうのだけは、合っていると思うの。……マリアじゃなくて、アリアだなんて、なんか変じゃない?」紫穂は大真面目に訊いてきた。
「〝主よ、アーメン!〟って書いてあるもんね」ぼくは、ゆるむ口もとに力がこもるよう意識して、笑わないように注意しながら、なんとか云った。
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