I've been patient ⑪
ぼくは、紫穂の笑顔に安心して、もう一度メモを見た。
メモには、番号が二つ書きたされてあった。──⑧と⑩の、二つだけ。
ぼくはCDジャケットをひっくり返して、
裏っかわに書き並んである曲タイトルを見てみた。
……うん、番号以外は、全部外国語で書かれてある。
これって何語だろう? 英語?
それにしても──「バッハの曲は、こんなにたくさんあるのに、お勧めの曲は〝G線上のアリア〟と、この番号との、三つだけ?」
ぼくは片眉をあげて、ちょっぴりいたずらめいた訊きかたをした。
紫穂は半分申し訳なさそうに、だけど、もう半分は開き直ったかのように、瞳は困った色を見せつつも、おどけ顔で肩をすくめた。
「オルガンの曲もいいとは思うけど……こう、なんていうか──うん、ジャンルが違うの。……心を安らかせたいのなら、この三曲だけ。三曲のみ」
紫穂は静かに断言した。
「そっか、じゃあ、家で訊いてみるよ」ぼくがなにげなく云い返すと、紫穂の目がまるくなった。
「あなた、家にCDが聴ける機械があるの?」
「──え? ああ……あるけど……」ぼくは戸惑って、ゴニョゴニョと返した。
「そっか、いいな……」紫穂は、ヘッドホンの配線を指に巻きつけながら、ボヤクように云った。
ここでぼくは、母さんと兄さんを待たせているのを思い出して、
紫穂が驚いて、また目をまるくした。「──もう、どこかに行っちゃうの?」
「ぼく、母さんと兄さんを待たせていたんだ……すっかり忘れてた!」
云いながら、ぼくは試聴機のボタンを押して、出てきたCDをジャケットにしまった。
それから、鉛筆立てに突っ込まれてある貸出用紙に、今日の日付と、バッハのCDジャケット名のアルファベットを──何回も目を、紙と文字に
なんだってここは外国語のCDしか置いてないんだ! CDを用意する時に、日本語に
「また、逢えるといいね」紫穂は、フカフカの椅子に、両手を突き立てた格好で云った。
ぼくが
ぼくの胸が、やけにしめつけられるように、苦しく、つらくなった。
「ぼくも、よく図書館に来るから、また逢えるよ」
紫穂は、再会をほとんど期待していないのか、淋しげな微笑みを浮かべたまま、片手を〝バイバイ〟とヒラつかせた。
どうしてだか、ぼくは紫穂を抱きしめたくなったんだ。
このまま、ギュッと──。
〝一人じゃないよ〟っていう言葉だけじゃ、伝わらないだろう?
だから、抱きしめたかったんだ。
けど、ここは図書館だ。
図書館は、知性と文明と秩序の象徴である。
おまけに人目もある。
だからぼくは、紫穂を抱きしめるのが叶わないのなら、せめて、紫穂の肩に手を置きたいと思った。だけど、それさえも
紫穂が身にまとっている雰囲気は、聖域のようだったから──。
〝いたずらに──希望を持たせるだけの口約束で──体にふれてはならない〟。
そう云われているような気がした。
約束の言葉だけじゃなくて、ぼくらは未来でまた出逢って、ふたたび逢えるのを、身をもって証明しないと、紫穂に
……そりゃ、そうだよな。
……だってぼくは、過去に突然、きみの前から消えたんだ。……さぞ、絶望したろう? 淋しかっただろう?
いつになったら、また逢えるのかもわからず、ぼくが生き延びているのかさえわからず、ずっと、ひとりぼっちで過ごしてきたんだから。
だから、これからは、ずっとそばに居るよ。
紫穂の記憶が
もし、繋がらないままだったとしても、こうしてまた、一から絆を結べるのなら、ぼくはそれでもかまわない。紫穂のそばに居れるなら、それだけでいい。
「また、いつか……バイバイ」ぼくは、苦しい別れの挨拶をして、受付に向かった。
紫穂が、悲しげな眼差しで、ぼくの背を見送っているのを感じる。
ぼくは背中に悲しみを感じながら、バッハのCDを借りて、この部屋をあとにし、火の鳥の本の貸し出しの受付もすませた。
…*…
帰りの車の中で、兄さんが、紫穂の悪口をやんややんや云い始めた。
紫穂たち親子の騒動は、窓辺のソファで待っていた、ぼくの母さんと兄さんの耳にも届いていたらしい。
そりゃ、届くよな……だって、図書館中がシーンとしたんだから。
ぼくは、兄さんの口から出てくる悪口に耳をかさず、車の窓から見える景色に目を
運転する母さんがときおり、ルームミラー越しに、うしろに座るぼくの表情を気にして見てくるけど、ぼくはそれも無視した。
…*…
家につくなり早々に、兄さんはひどく腹を立てていて、自分の部屋へ引き籠ってしまった。
帰りがけに、喫茶店へ寄り道しなかったのが、よほど頭にきたらしい。
ぼくからしてみれば、兄さんはあれだけ自分から、周りの気分を悪くするような話しを、ベラベラ喋っておいて、あんな雰囲気で「じゃあ、おいしいケーキを食べに喫茶店に寄り道しましょう」なんていう流れになるわけがないのに。
──ほんっと、後先考えてないよな、兄さんは!
ぼくのほうは、家についてから、母さんとリビングへ行って、借りてきたバッハのCDを、楽曲用コンポにセットした。
紫穂が
(ウチにある、この楽曲用コンポは、父さんのコンポだ。父さんが大切に使っていて、リビングに置いてある。……父さんは、テレビを見るよりも、音楽を聴くほうが好きなんだ)
ぼくは、バッハのジャケットの裏面を見ながら、まず〝G線上のアリア〟を流した。
すると、夕飯の準備にとりかかっていた母さんが、エプロンで手を拭きながら、
台所から、ぼくの座るダイニングテーブルまで意気揚々にソワソワとやってきた。
「バッハじゃない……。涼、どこでこの曲を知ったの?」
母さんは、感心と驚きをこめた感じで訊いてきた。
「兄さんが悪口を云っていた子が、今日、ぼくに図書館でバッハを教えてくれたんだ」
云いながら、紫穂がくれた紙切れを、テーブルにすべらせ置いて、母さんにも見せる。
母さんは顔を曇らせ──紫穂への第一印象が、かなり悪いんだ──メモを拾いあげ見た。それからすぐに、フッと笑った。
この紫穂のメモ書きを見て、笑わない人はいないよな。
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