I've been patient ④


 次の日、登校中の班で、ぼくは紫穂を見つけた。


紫穂は、道路脇の用水路をしきりに気にしながら、班のれつを歩いている。


 ぼくらの班のれつの先頭を歩くのは、班長である兄さんだ。

兄さんも、紫穂に気づいたみたいだけど、なにを云うでも、なにをするでもなく、歩くスピードだけをあげた。


なんせ、ぼくの隣りには母さんがいるからな。

母さんの見ている前で、さすがにわるさはできないだろう。


 ぼくは兄さんのくやしがりようが可笑おかしくて、笑いを必死にこらえながら歩いた。


 兄さんは、視界に入る紫穂が目ざわりなのか、

せめて紫穂の班を追い越してやろと考えたのか、そこはわからないけど、躍起やっきになって早歩きしている。


 そのおかげで、ぼくらの班が紫穂の班に追いついて、ぼくは紫穂とすれ違う事ができた。


すれ違いざま、ぼくは思いきって紫穂の肩をトントンと叩いてみた。


「おはよう」無難ぶなんに、朝の挨拶で声をかけてみる。


 そしたら、紫穂は、目をまるくしたビックリした表情で、用水路からぼくへ顔を向けてきた。


そして驚き顔のまま、しげしげとぼくの顔を見ている。

……〝この人、だれだっけ?〟みたいな顔だ。


 ……え? 紫穂は、またぼくの事をすっかり忘れちゃったの?


校門で、北海道にいるはずのぼくを想って、あんなに激怒げきどしておどした相手だっていうのに。


「お、おはよう……」


紫穂は、用心深いうたがわしげな目つきで、ぼくと母さんを見比べると、

ぎこちなくボソボソと挨拶を返してきた。あげく、挨拶を返してから、小首こくびまでひねっている。


本当に、ぼくに対して心あたりがまったくないみたいに。


(いったいぜんたい、きみの頭は、どうなっているんだよ!)


 ぼくは、きみの記憶の欠落けつらくぶりに、心底──ちょっぴりいかりがにじむほどに──驚いた。


それと同時に、北海道へ行く前に、きみがぼくに話してくれた事もおもい出した。


 〝ケンカした相手の顔を、いちいち覚えていられない〟


 ──なるほどそうか。

これが、そうなのか? ……まいったな、こりゃ。


 それじゃあ、ぼくは、きみに顔を覚えてもらうために、ケンカじゃなくて友達として、どうにか仲良くならなきゃいけないってわけだ。


まあ、もともとぼくは、きみとケンカをする気なんてさらさらなかったんだけど。


きみがどえらい思い違いをして、あの日、校門でケンカみたになっちゃっただけなんだけどな。


ぼくはきみと仲良くするつもりだし、仲良くしたいんだ……というか、もうすでに仲は良いはずなのに、まったく本当に、きみはいったい、いつになったらぼくをぼくだとわかってくれるんだ?


 兄さんは、ぼくが紫穂に声をかけたのに気づいて、面白くなかったのか、さらに歩く歩調ほちょうはやめた。


 ぼくは紫穂の反応に落ち込んで、うつむいて班の列に遅れをとらないように歩くしかなかった。


 昨日、図書室で読んだ本〝ジキルとハイド〟は、放課後中に読み切れなかったから、ぼくはあのまま、あの本を借りたんだ。


〝ジキルとハイド〟は今、ぼくの部屋にある。


 夜、寝る前にあの本を読んだかぎり、二重人格者に紫穂はあてはまらない。


紫穂の記憶の欠落と、混在こんざいは、もっと別の症状だと思う。


明々後日しあさっての日曜日、図書館に行って、紫穂の症状を調べてみよう。

つきとめられるかどうかは、まったくもってわからないけどさ!


…*…


 〝ジキルとハイド〟を読みおえた。


 感想は……そうだなぁ……ひどい話しだった。

……これしか思い浮かばないよ。


 もし、仮に、植田から〝上林先生のいやらしい悪意〟を聞いていなかったら、もっと違う感想になっていたかもしれないけど……。


 けれども、女の人を売女ばいたとさげすんで呼んでたり──しかも、女の人をさげすんで呼ぶくせに、悪態吐あくたいはくその客は……まあ、ハイド氏なんだけど。


……そのハイド氏は女の人をののしるクセに、その娼婦しょうふを買って、やりたい放題をする。

もし、この世に彼女たちの存在がなかったら、自分がこまるクセに。


自分は娼婦を必要としているくせに、彼女たちに悪態あくたい吐くわ、罵るわ、あげくのはてに殺すわで、もう辻褄つじつまもなにも合っていない。


 最終的に、彼女たちの体を実験台にして、虐殺しているし……ひどい話だ。


 昔の中世の時代は、こんなにひどく乱暴な時代だったのだろうか? ……でも、そうか。この時代は〝魔女狩り〟なんていう、理不尽な云いがかりで女性を生きたまま火あぶりにしてきた時代でもある。


男たちは女性を必要としているのに、なぜか、見栄みえりのようにそれを認めなくて、さげすんで、なじりつける。


そして、自分の社会的地位があやうくなって、都合が悪くなると、逆恨さかうらみや責任転嫁せきにんてんか、八つ当たりに殺す。


……たしかジャンヌダルクもそうだったはず。

胸クソ悪すぎて吐き気がする。


 だから、中世の時代における、この〝ハイド氏〟の振舞ふるまいは、なくもない話しってわけだ。


 この時代の上流階級の人達は、自分の頭のおかしさに気づけない……もしくは、頭のおかしさに気づいているけど、気づかないフリをしているのか──。


 それは当事者じゃないからわからないけど──これだけ辻褄の合わない、わけのわからない云いぶんを大仰おおぎょうに、しかも堂々と云ってのけて、それが認められて、まかり通っていたのだから、奇怪おかしな世の中だ。


 それと、悪と善についての感想だけど、

ぼくにとってこれら悪と善については、論点にもならないな。


 はっきり云って、善と悪なんて、自分で区別ができるし、制御せいぎょもできる。


 そもそも、ジキル医師の考え方が根本的におかしい。

どうして女性を求める欲望を、悪と結びつけたのか。この心理がおかしいんだよ。


 愛する人を求めるのは、道理どうりかなっているし、その愛情を悪だと思う考えのほうがむしろ、どうかしている。


 奇怪な世の中で、心がむしばまれてしまったのだろうか?


 まあ〝ジキルとハイド〟は架空の話し──小説なんだけど、この本のおかげで、とにかく、この中世の時代において、女性をひどく見下していたっていうのだけは、よーくわかった。


 ……上林先生は、この〝ジキルとハイド〟をで行っているんだろうなぁ、きっと。


 表立っては〝善良で善人な小学校の先生〟。


 裏の顔は〝小学生の生徒の体にわいせつをする変態クソジジイ〟ってわけだ。


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