I've been patient ②
ここでさすがの教頭先生も、いよいよ本気の
「いやあ、きみの云いたい事はわかるよ。だけど、それじゃあきみは、僕にも敬語を使わないけど、それはきみにとって僕が、尊敬するにあたいしない人間だからだと、そう云いたいのかな?」
教頭先生のなけなしの──本当に泣きそうになっている──レシーブに、
今度は紫穂が戸惑った表情を見せた。
目を泳がせ、涙目の教頭先生を見ている。
「……教頭先生は、まだ、この学校に来て日も
そんなに
──それに、どうせ先生はみんな、わたしの家庭環境を知っているんでしょう? そのせいよ。そのせいで、わたし、用心深いの!
教頭先生が尊敬するにあたいする人間だってわかったら、その時は、おのずとわたしだって敬語を使うわよ! だから、わたしが敬語を使いだす日がきたら、その時は『ああ、この子はやっと僕を尊敬してくれたんだ』って、そう思ってくれてかまわない。
──だから、そうゆう日が来るといいわね! お互いに!」
紫穂は吐き捨てるように云いきると、先生たちをかきわけて、昇降口へ向かって走りだした。
うつむいて走る紫穂の顔は、帽子のつばで隠れて見えないけど、口はへの字になっていて、泣くのをこらえているのが見てとれる。
……紫穂。
──そうか。
そうだったよね。
紫穂は、毎日のように暴力を受けているんだったよね。──実の、父親から。
それは変わらず、今でもつづいているって事なんだ。……先生たちも、知るほどの暴力が。
だけど、だれも助けてくれない……。
教頭先生が、
──紫穂が云った、尊敬できる日。
それは、紫穂から先生へ向けたSOSなのかもしれない。
このサイアクな家庭環境から救い出してくれと。そしたら、尊敬するからと……。
教頭先生も、それを重々承知しているんだ。
だけど、助けたいのに、助けてあげられない。
だから、泣いているんだ。──自分の
……どうしたらいいのかなあ、紫穂。
ぼくは、きみを、どうしたら助けてあげられるんだろう?
今のぼくにできるのは、きみのそばにずっと居て、手を
ねえ、紫穂。……どうしたらきみは、ぼくを、ぼくだと知ってくれる?
…*…
放課後、ぼくは図書室へ直行した。
昨日、兄さんが云ったように、学校帰りの寄り道は無理だと、ぼくも思ったからだ。
今朝の登校班で、それとなく道のり周辺を観察したけど、
これといった遊び場は、どこにもなかった。あったのは、住宅街と道路くらいのものだ。
図書室まで行く
二人して、ランドセルを片肩にひっかけて、日の当らない薄暗い廊下を歩いている。……それにしても、ここの廊下は、つくづく肌寒いな。
「ほら、あのつきあたりが図書室だよ」横を歩く植田が、指をさして教えてくれた。
図書室は、ぼくたちのクラスのある別校舎の、
二階の一番
図書室のドアを引きあけて中へ入るとすぐ、古い本がはなつ独特の
図書室の場所は、別校舎の端で、南側に面しているのもあって、陽の明かりが充分に差し込んでいて明るい。
本棚がドミノ倒しのようにひしめいていて、そこを抜けると、がらんどうの空間があった。
その空間には、読書のための──あるいは、調べ物のための──理科室とおなじ黒い長机が二つ並んでいて、背もたれのない木の椅子が、もの寂しげに点々としている。
ぼくは〝高学年むけ〟と
本棚を見てみれば、本は作者順に並んでいなくて、本の題名順に並んでいた。
あ行から始まって、わ行で終わり。
ぼくは、さ行にくまなく目をやって、お目当ての本を見つけた。
〝The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde〟──日本語訳にすると〝ジキルとハイド〟。
正直に云うと、ぼくはこの本が学校にあるとは思わなかった。
ダメもとで探したけど……やったな! まさかこんな──大人しか読まないような──本を置いているとは。ぼくは、いくばくか、この学校を見直したよ。
ぼくは〝ジキルとハイド〟の本を本棚からひっこ抜いて、あのがらんどうの席に向かった。
席には、植田が着席していて、もう読書を始めている……ぼくはちょっと驚いた。
まさか、図書室まで案内してくれた植田が、このまま読書をするとは思わなかったから。
植田は黒い長机にランドセルを置いて、もくもくと本を読んでいる。
ぼくは植田の隣りに座りしな、身をちょっとかがめて、植田の読む本の表紙をのぞき見た。
植田が、どんな本に興味を
植田が読んでいたのは、〝日本の歴史──古代~古墳時代〟の分厚い本だった。
ストーリーを漫画で解説していたりして、なかなか面白そうだ。
〝古代〟という言葉の響きと〝古墳〟なんかに、植田はきっとロマンを感じているのだろう。
ぼくが選んだ本は〝ジキルとハイド〟だ。
植田が選んだ本と、ぼくが選んだ本の差に、ちょっと気まずさを感じつつも、
ぼくは植田を見習って、ランドセルを机の上に置いて、この本を読みあさった。……なにか、理由がほしかったんだ。
きみがぼくを、ぼくだと知ってくれない理由を。
その理由が見つかれば、少しはこの傷がやわらぐかと思ったんだ……いや、そうやって、なにがしかの理由をあてがって、自分をなだめようとしているにすぎないと、この時のぼくは、自分の気持ちに気づいていた。
だけど、その気持ちに気づかないフリをした。
そうじゃないと、ぼくは、自分の心が崩壊してしまいそうだったから。
〝ジキルとハイド〟
二重人格者の話しだけど、
紫穂がぼくを、ぼくだと
ぼくは、この歴史的な
「あの
本から顔をあげて植田を見てみれば、彼は本に目を落としたまま、なんだかうわの空の表情で、ぽつりぽつりと話し始めた。
「自分の担任する生徒の体を……その……よく
女子のあいだで、すごい噂になってる。──もう、知らない生徒はいないんじゃないかな……。
だから、女子は、あの先生が担任になるのを、すごく嫌がっているんだ。体を触られたくないって」
植田の話しを聞いて、ぼくは──自分の胸クソが悪くなるのを感じた。
こみあげてくる
「──え、なんだって?」ぼくは思わず、訊き返してしまった。
だって、嘘だろう? そんな……学校の先生が、
「だから! あの先生が、女子の体を
植田が本から顔をあげて、ムキになった感じで
「信じられないかもしれないけど、でも、やられた子の話しを聞いたかぎり、その子がウソをついているようにも見えなかった……だって、泣きながら話していたんだぜ? その子、今は学校に来なくなってるし。……こういうのを、登校拒否って云うんだって……」
はあ? 登校拒否って……信じられない……。まさか、本当なの? ……え?
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