Please don't be a stranger ③


 大人同士の退屈な話しが進む途中で、もうひとり、スーツを着た男の先生が校長室に入ってきた。教頭先生だろうか。


手には、湯気の立つお茶のわんが四つのせられた盆を持っている。

脇には、なにかを挟んで持っていて……これは、名簿かな? 白い紙を数枚はさんでいる黒い表紙のはじを、黒い紐でむすってある。


 男の先生は、ぼくたち親子と、校長先生のあいだにあるテーブルに、緑茶の匂いを漂わせるお碗を置き並べていく。ぼくは、軽く、会釈えしゃくをした。


「こちらの葛城かつらぎ先生が、あなたの担任の先生になるんですよ」校長先生が優しく語りかけてきた。


 ああ、そうか、この先生は教頭先生ではなくて、ぼくの担任の先生になる人だったのか。どうりで、名簿を持ち歩いているわけだ。


 母さんがきゅうに立ちあがって、お辞儀じぎをしてから挨拶を始めた。


「ああ、あなたが……葛城先生ですか。お電話では色々と親切に教えてくださって、助かりました、ありがとうございます。それに、これから、うちの子がお世話になります」


 ぼくは母さんのいきおいに面喰って、どうしたらいいのかわからなくて、まごついたけど、とりあえず、母さんをマネて立ち上がって、挨拶をした。


母さんはこれまで、ぼくの知らないところで気苦労きぐろうを沢山しているようだから、ここで神経の細くなった母さんの面子めんつをつぶすわけにはいかない。


「鳥海 涼です。これから、なるべくお手数をかけないようにしますから、よろしくお願いします」


 葛城先生は苦笑くしょうをして、校長先生の隣りに腰を落ち着かせた。それを見たぼくたち親子も、ソファに着席する。


 葛城先生は、呼吸を一拍とめてから、切り出した。「まあ、まあ、そんなにかしこまらなくても平気ですよ。もっと子供らしく、元気いっぱいにすごして下さい、鳥海くん」


 そうサラリと云われて、ぼくが尻込みしただなんて、この先生は──ましてや、ここに居る大人全員が──毛ほども感じとってないんだろうなあ。


 子供らしく、元気いっぱいにすごすだって?


 このぼくが?


 できるのか、そんな事が。というか、していいのか、そんな事を。


……いや、本音を云ってしまえば、ぼくは、元気いっぱいに走りまわりたい。


 ぼくは母さんのほうをチラリと見た。……バッチリ、心配げな眼差まなざしと目が合う。


母さんは、ぼくが先生にそそのかされて、ハメをはずしすぎて、具合を悪くするのをおそれているんだ。


 ぼくは、先生に返事をするつもりで、母さんへ視線を向けたまま、母さんを安心させるために、母さんの気持ちに応えた。


「ぼくのできる範囲で、子供らしく、元気にすごします」


 この時、ぼくたち親子が、担任の葛城先生と校長先生から、痛々いたいたしげな眼差しをそそがれて、先生同士で目を合わせあったのは、気のせいだって事にしておこうと、ぼくは思った。


…*…


 大音量のチャイムがまた鳴って、ぼくはまた肩をあげて驚いた。このチャイムの音に、いつの日か、れる時がくるのだろうか。


 チャイムの音を聞いた担任の葛城先生が、そわそわしだした。きっと、このチャイムが、授業だか朝礼開始の合図なのだろう。


「それじゃあ、そろそろ、僕達は行こうか」葛城先生はお茶を一口すすると、名簿を抱えてソファから立ち上がった。「きみのクラスに案内するから。それと、クラスにつくまでのあいだに、みんなへの挨拶を考えておいてね。挨拶といっても、自己紹介みたいなものだから、自分の名前くらいは、みんなの前で云えるよね?」


 葛城先生は口早に云いながら、校長室の入り口まで歩いていた。時間が無いとばかりに。


 先生の、ぼくをバカにしたような口ぶりにムッとしたけど、出されたお茶を一口だけすすって、足もとに置いたランドセルを片肩にひっかけた。


母さんは、このごにおよんで、いまだに心配そうな表情を隠そうともしない。ぼくは母さんに、はにかんで見せた。


「それじゃあ、母さん、行ってきます」


 母さんの目がみるみる涙目にうるみはじめた。……もう、かんべんしてよ。

ぼくはこのとおり、チャイムの音にビックリしても、もう大丈夫なんだから。


 母さんは泣くのをこらえた、喉をおしつぶした声をあげた。


「……いってらっしゃい。涼、無理しちゃダメよ。なにかあったら、すぐに担任の葛城先生に助けを求めてね。──先生」と、ここで母さんは立ち上がって、校長室入り口に立つ葛城先生にすがりつくように云った。「どうか涼を、よろしくお願いします」で、深々と頭をさげる。


 ぼくは内心で、この芝居がかった、さも激動で悲劇の子供をたくしますっていう母さんの過保護すぎる振舞いに、うんざりしていた。


〝……ぼくは本当に、もう大丈夫だから〟


そう云いたくても、云えなかった。

そう云うと、母さんの心配性に拍車がかかるのも、目に見えてわかっていたから。


ぼくが〝大丈夫〟なんて云ったら、母さんは〝そうやってムチャをされるのが、一番心配なのよ〟とか云って、家に引きずり戻そうとするにきまってる。


 だからぼくは、ここはあえて、だんまりをとおして、葛城先生の近くまで行った。


 葛城先生は苦笑しながら、逃げ腰のように、校長室のドアを開けた。


「はい、大切なお子さんをお預かりします。それでは、授業がありますので……鳥海くん、行こうか」


「はい」ぼくはつとめて笑顔で振舞った。

母さんには、笑顔で元気に手を振って見せて、ぼくに心配がご無用むようなのをアピールしたつもりだけど、


はたしてこのアピールがどこまでつうじているのか、疑わしいかぎりだ。


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