Risking one`s life ③


 母さんは部屋を横切って、入口そばの洗面台に歯ブラシセットを置き、かぶりを振った。

ちいさなため息がもれたのも聞える。洗面台から振り向きざま母さんはやっと話しにのった。


「その子、紫穂ちゃんっていうのね。涼とおなどしなの?」


 そう訊かれて、ぼくは一瞬ポカンとした。


「……そういえば、いくつか知らないな。でもたぶん、同い年だと思う」


 まともに話しができていたし、としはそう離れていないはず。

でもそっか、もっといろいろ話しておくべきだったな……。今さらもう遅いか。ぼくは死ぬかもしれないし。


「仲良くなり始めたばかりなんだものね。でも学年も知らないなんて、涼は友達付き合いがまだヘタね」


 ぼくは顔をしかめて母さんに無言の抗議をした。

ヘタもなにも、ぼくには友達とすごす時間が少ないんだから、しょうがないじゃないか。


 母さんはぼくから目をそらしてベッドのほうへ戻ってくると、椅子に腰をおろした。


「伯母さんが云うにはね、その子、昨日の夕方にあの家に来たらしいわ。骨の折れまがった赤い傘を引きずりながら。


全身、泥水どろみずでビチョビチョになってて、きたならしかったって。


それで伯母さんびっくりしちゃったみたいで、その子を追い払いたかったのね。


つめたい感じに『この家にいた子は北海道に行っちゃった』とだけげたんですって。


『そしたらその子、子供のくせにムキになって大人の私に楯突たてついてきたのよ! 〝大人がここにいるのに、子供だけで北海道に行けるわけないじゃん!〟って! あの子、私の事を子供たちのお母さんだと思ったのね。

それにしてもあの口のききかたったらないわ! 生意気だった! だから子供たちはもう二度とここに帰ってこないから、あなたも二度とここに来ないでねって云ってやったのよ!


それなのにその子、引き下がらないの! 私の腕を思いっきりつかんできて〝逃がさないわよ!〟みたいなすごい目で睨んでくるの! 私、寒気さむけがしちゃた! つかまれた腕もあざになっちゃったのよ! あんな子と涼くんが友達だなんて信じられないわ! ねえ、あなたもそう思うでしょう?


それでね、──そう、まだあるのよ。あの子、こう云ってきたのよ〝うそつき!〟って。〝意地悪いじわるして逢わせないつもりなんでしょう! この意地悪クソババア!〟って! ほんっと、にくったらしいったらありゃしない! 私、警察呼ぶわよっておどしてやった。


それでやっとひるんだのか、つかんでる手の力が少しゆるんで、それで私はやっと腕を振りほどいたのよ。まったく子供のくせになんて馬鹿力ばかぢからなのかしら! 私、家の中に逃げ込んで窓からこっそりその子のようすをうかがっていたんだけど、小一時間くらい家のまわりをウロウロしていたわよ。


それで、やんでた雨がまた降りだして、土砂降りの中、あの子トボトボ帰っていったわ。その時はほんと、天が味方してくれたと思った! 帰っていく姿がみじめったらしくて笑えたわ』って、そう云っていたの。……あまり、いい話しじゃないでしょう?」


「──うん。人が悪いね」


 ぼくは心ここにあらずに応えた。意識だけが飛んでその日のきみが見える。雨にずぶ濡れになって悲しげに立つきみの姿が。


 ぼくの胸にぽっかり穴があいたようだ……すごく悲しいよ。


「伯母さんは悪い人だ。ぼくはもう二度と伯母さんと口を利かないからね」ぼくはハッキリ断言した。


 紫穂は、どんな気持ちであの牢獄に帰ったんだ? 傘の骨が折れまがっていただなんて、なにがあったんだ? またケンカでもしたのか?


 けどきみが、とても悲しく寂しい想いをしてしまっているのがわかるんだ。

それなのにぼくは、そばにいてやれない。──そばに、いてやれないんだっ!


こんなに遠く離れた北海道にまで来てしまって、ぼくは──死ぬかもしれない! そしたらきみは正真正銘の独りぼっちだ。


 ぼくにできることは、心臓を動かし続ける事。

なにがなんでも死なない事。

これがぼくにできる唯一の事だ。


それにぼくは、大切な本当のきみをここにもらっている。──ここに。ぼくは胸に手をあてた。


 ぼくが死んだら本当のきみも死んでしまう。──だからぼくは生きなくちゃならない。なにがなんでも生き延びなければならない。そして、きみに逢いにいく。なるべく早くに。


だからもうちょっとのあいだだけ我慢してて。

ぼくは必ずきみのところに戻るから──。


 ***


 父さんが医者と話しをつけたのは、ぼくが入院してから三日後だった。

そのあいだに訊いてまわった話しによれば、この病院では前に、心臓移植手術をしたけれど、どうもそれが上手くいかず失敗したらしい──という話しだった。


ぼくもその噂はそれとなく耳にしたよ。

若い少年二人があの世に逝ったと……。看護婦がひそひそと話していた。あの子は上手くいくのかしらね? って。


 今、ぼくが座るベッドの両横には父さんと医者が来ていて、椅子に座っている。

大人同士では移植をける心臓手術をする結論にいたったようで、あとはぼくの同意が必要なんだとか。


この医者、やわらかく笑って話しかけてくるけれども、目は危機切羽詰せっぱつまっているし、ひたいには脂汗を浮かばせている。


ぼくの同意を求めているというよりも、〝説得しに来てる〟と云うほうがふさわしいな、これは。


 ぼくは語気を強めて云った。「ぼくは、なんとしてでも死にたくないんだ。──死ぬわけにはいかなくなった。だからぼくは、なにもいそいで手術しなくてもいいと思ってる」


 父さんは安心したのか肩を撫でおろした。

けど医者の調子と都合は、どうも父さんと噛み合ってないらしい。医者は白衣のポケットから水色のハンカチをひっこ抜いて脂汗をぬぐっている。


「でもね、遅かれ早かれ手術はしないと。きみの成長に心臓が追いつけていないんだよ? きみの身体は成長したがって、たくさんの栄養と血液をほしがっているのに、だけどそれを運搬うんぱんする役割の心臓のほうがついていけずに悲鳴をあげているんだ……荷の重すぎる重労働だとね。


本人に云うのはこくだけど、このままだと涼くんは二十歳はたちまで生きられない……あまり月日をおいて後回しにするのはぁ、良くないよ」


「ぼくは、実験台のモルモットになるつもりは無いって云いたいんです」ぼくはズバリ云ってやった。


看護婦たちの噂話が本当なら、ぼくは医療発展のいしずえになるべく、捧げられる生贄いけにえだ。


 ぼくの本願は生き抜く事だ。紫穂と一緒にね。


 だから医療の犠牲になるつもりは、この医者の禿げ頭とおなじで毛頭ない。


 医者は脂汗の量を増やして──顔からは笑みが消えた──もごもご云ってる。

「そんな……モルモットだなんて聞えが悪い。私にはそんなつもりはないよ。ただきみに、良くなってもらいたいだけなんだ」


「良くなってもらいたい、ね……。〝助けたい〟じゃないんだ」ぼくのボソッと云ったツッコミに、医者の唇が──いかりかおそれからなのかはわからないけど──わなないだ。


 父さんが身をかたむけてぼくをいさめに入った。


「これからお前に手を尽くしてくれるお医者さんだ。涼、口の利きかたに気をつけなさい」


 ぼくは父さんを睨み抜いた。父さんは、他人事だと思ってないか?


「大人の打算に命を振りまわされる子供の身にもなってみてよ」


 父さんの目がすっと細くなった。「……涼、おまえ……変わったな。先生、ちょっといいですか?」

「……あ、はい、いいですよ」


 暑苦しい大人二人が病室から出て行ったのを見届けてから、ぼくはベッドから降りて部屋の窓をほんの少し開けた。


換気がしたかったんだ。部屋の空気が薄汚れているように感じるから。


 大人は、汚い。

大人になると、みんながああも小汚こぎたない人間になるのだろうか? ぼくはイヤだなあ。あんな汚い大人にはなりたくない。


 数時間、ぼくは病室にひとりきりですごした。

読書する本でもあればしのぎやすいのに、この部屋には本の一冊もない。



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