第十一章 Risking one's life

Risking one`s life ①


 梅雨入りした季節になって、

きみの足はぼくの居る家から遠のいていった。

毎日のように遊びにきてくれていたのに、寂しいよ。


 それと、心配なんだ。

きみが痛い目にわされているんじゃないかって。


 実の父親からあんなひどい暴力を受けているだなんて、きみは大丈夫なのか? ……大丈夫なわけがないか。それなのに泣きもしないだなんて──泣けないだなんて、きみは、かわいそうだ。


 きみは、家を牢獄に感じているのだろう。

 ──ぼくが、早くそこから出してあげたいよ。


 心臓の手術がおわってからの、その先の自分の生きかたを考えるなんて、きみに出逢わなければ、ぼくは絶対にしなかったと思う。


 元気になったらまず学校に行き、学ぶ。

ホントならすぐにでも働いてしまいたいところだけど、

この国には義務教育の足枷あしかせがついているからそうもいかない。だから中学まではたえないと。……あと、六年だ。


 ──六年。


 きみは、あと六年も毎日暴力にたえなければならないのか。

それも半殺しの暴力を。


 それらの凄惨せいさんな日々のきみの姿が想像できた時、ぼくの背中に寒気が走った。


〝早くしなければ〟という焦る気持ちと同時に、

〝そんな父親なら殺してしまえ〟とも思った。


 ***


 梅雨の雨がしたたる夜、その知らせは突然まいこんだ。


 帰宅した父さんは興奮さめやらぬようすでぼくの肩をつかみ、心臓の適合者が大変だ! と声高に云った。


適合者てきごうしゃの容態が急変したらしい! 涼、これでついに手術ができるかもしれない! 明日、朝一番でここをって北海道に行くから、父さんは準備をするよ! ──ああ、母さんも迎えに行かなきゃな。

ちょっとあわただしくなるけど、おまえは気にしなくていい。手術にそなえてゆっくりしていなさい。こんな季節の変わりめだ。風邪なんてひかれたらたまったもんじゃない」


 父さんはすぐに旅支度たびじたくを始めて家中をウロウロしだした。

 大きめのバックやらタオルなんかを引っぱり出している。ぼくはだまったまま自分の部屋へあがっていった。


 驚きに戸惑っているんだ。


 手術をすると心にきめていたのに、いざその時がきたら怖くてしょうがない。


それに、北海道? 明日? どうしてこんなにきゅうなんだ? ──紫穂に逢えないまま……挨拶も、手術がきまったのも告げられないまま、ぼくは明日旅立たなければならないのか?


 紫穂に逢いたい。


 手術をする前にもう一度だけでいいから、きみと逢って手を繋ぎたい。

ぼくが一人じゃないって、もう一度確かめたい。


 だけど無情にも、ぼくの願いや想いはむなしく流されていった。

ぼくは紫穂の家の場所も、電話番号さえも知らなかったから、一言のお別れもできずに北海道へと旅立った。


 きみがあとからぼくの不在を知って、はるか遠くの北海道に行ってしまったと知ったら……。そして手術をすると知ったら──しかも手術が成功するのかもあやしい──きみは、どう思うかな。


きっと心配するにきまってる。

そのくせ、ぼくをはげまそうとがんばって笑うんだ、きみは。

ぼくからしてみれば、きみのほうこそが心配なのに。


 ぼくがいなくなったら、きみはひとりであの暴力を毎日たえなくちゃいけないんだう?


大丈夫なのか? ……大丈夫なわけがないよな。


 北海道までの移動中、父さんと母さんはぼくの口数の少なさを心配しているようだった。

ぼくの顔色をチラチラ見たり、昼食は消化のいいおうどんにしようかとか、無駄に話しかけてくる。あれこれ気づかってくれたけど、最終的には手術にむけて緊張しているんだね、という会話をわしていた。


 もちろん手術自体にも緊張している。

だけどぼくはきみが心配でならないんだ。


……ぼくは、きみのもとに帰れるのだろうか。

命運は、医者とぼくの体力、それから適合者との相性にかかっている。

どうか、成功してほしい──きみのために。ぼくはそう願うばかりだ。


***


 北海道に着くとホテルに直行した。

ホテルの部屋はベッドが四方に四つある、広めのファミリー向けの部屋で、ベッドの片側には電話機がある。


母さんは電話機そばのベッドに荷物を置くなり、旅行用バッグからぼくのパジャマをほじくり出した。


「疲れたでしょう? お風呂に入ってもう寝なさい」これだ。すぐぼくをベッドに縛りつけようとする。


ほとほとうんざりするけど、母さんの細くなった神経がそれで治まるのなら、ぼくはしたがうよ。

もうヒステリーやパニックはごめんだ。


 兄さんは移動の途中に買ってもらったルービックキューブに夢中だ。

今もベッドに座りこんでカチャカチャやってる。


 ぼくはパジャマを受け取って部屋にそなわっている風呂に向かった。

脱衣所で服を脱いでいる時、母さんの話声が聞えてきた。


「あ、義姉おねえさん。今ホテルについたの。──ええ、何事もなくみんな元気よ」


義姉おねえさん。と云う事は、あのベッドの真ん中にあった電話機を使って、父さんの実家に──ぼくが朝まで居たあの家に──電話をしているんだ。


「え? 涼にお友達なんていたの?」


母さんのうわずった驚き声に、ぼくの服を脱ぐ動きがとまった。

あの家に訪ねてくるぼくの友達はひとりしかいない。

きみだ。きみが来たんだ。


「子供たちが北海道に行ったことに納得してない? …──まあ! そんな云いかたをしたら納得するわけがないじゃない。……もう、義姉さんも人が悪い……え? ああ、子供たちの教科書はまだ送らなくていいわ。

手術がおわってみない事には動けないもの。……ええ。……ええ」


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