Is that a compromise ?


 帰りしな、僕はあきらめずに、紫穂にねばりついた。「僕は入院したほうがいいと思ってるんだけど……。ねえ? 聞いてる?」


だけど紫穂からの反応がまったくない。


無視されているというより、僕の存在そのものを受け付けない……というか、僕っていう存在を認識しないよう、つとめて遮断しゃだんしているみたいだ。


「入院はムリがあるだろう?」紫穂に話しかけているのに、土屋がしゃしゃってくるし。「紫穂は仕事もしてるし、子供もいるだろう? 入院は、現実的にきびしいんじゃないかなあ? そりゃオレも心配だけどさ。


まあ、とりあえず、医者にてもらったほうがいいのは確実なんだよなあ……あいつ、具合ずっと悪そうにしてるから。けど──」


土屋が、へらっとした顔で僕を見てきた。「精神科なのか? 頭痛がひどいみたいだから、オレは脳神経外科につれていきたくて、やきもきしてるけど、精神科に入院は……違うんじゃないかあ?」


 僕は土屋をすがめ見た。「頭痛がするって、紫穂が云ったの?」


「ああ、先週、モールで。頭痛がひどくなりすぎて……吐いたんだよ。頭痛くらいで、ふつう吐かないだろう? 心配だよなぁ……」


土屋は道端に視線をなげて、サッカーボールをパスするように小石をはらいった。


 土屋からの情報と、僕がいままで蓄積ちくせきした医療経験をまとめても、紫穂の症状は緊急をようする。


「精神的なものでも、おなじような症状が出るときはあるんだよ……入院させるべきだな」


「なんでそんなに入院にこだわるんだよ?」土屋は胡散臭うさんくさげに僕を見るけど、知らないんだろうな、精神疾患の患者がどんな行動にでるのかを。


 僕は土屋にしか聞こえない程度の音量まで声をおとした。


「紫穂は、僕の見立てだと〝解離性健忘症かいりせいけんぼう〟を発症してる」


土屋が困り顔で耳に手をあてやがった。

聞きとれなかったのか、理解できないのか……両方か。そりゃ、そうだよな。訊きなれない病名ばかりだよ、この科は。


 僕は土屋でもわかりやすい言葉をさがした。


「人は、心がたえきれない強いストレスを感じると、記憶を消すんだよ。自己防衛本能で。それで心をまもる。でも、その記憶をおもい出したら、どうなると思う?」


 土屋は首をかしげた。質問の応えを待つように。

僕は慎重に小声で先をつづけた。


「自殺する人がいるんだよ、おもい出した記憶にたえきれなくなって」


土屋がフリーズした。信じられないと云いたげな顔で。


僕は車に乗り込む紫穂のうしろ姿──太陽の陽射ひざしに負けて、いまにも消えいってしまいそうなくらい、体の線が細いうしろ姿だ──を見ながら説得をつづけた。


「……頭痛は、憶い出したくない脳の、防衛本能が引き起こす拒絶反応だと、僕はそう診る。


それなのに涼の日記を見るなんて、自殺っていう爆弾の起爆スイッチを押すようなマネをさせるなんてさ……よくないよ。入院をさせて、安全な環境で日記を見たほうがいいにきまってる」


 でも強制はできない。

本人が病院に足をはこぶか、家族が希望しないかぎり、僕たち医者は心配する以外、なにもできないんだ。


「自殺は、しないと思うよ」土屋の低い声によばれて僕は視線をもどした。

けど土屋は僕ではなく、紫穂を見つめている。「紫穂が云いきったんだ。自殺はしないって。なんかあいつさ、来世らいせってやつを信じてる……っていうか夢見てるみたいなんだよ。輪廻転生りんねてんせいして、来世で涼に再会するのをさ。だから自殺はしないんだと。


仏教だかキリスト教だか知らないけど、そっち方面ではかなりの重いつみになるらしいじゃん? 自殺って。


 来世に生まれ変われなくなるらしいから、だから自殺はしないって、あいつ、そんなようなことを云ってたよ。──ほんと、まいっちゃうよな。お手上げだよ。そんなに涼が好きなのかよって……」


 僕は土屋になんて声をかけたらいいのかわからなくなった。精神科医なのに。

恋話こいばなは専門外だ。


「まあ、気長きながに待つか、土屋が変わるしかないだろうね」と、お決まりの問答もんどうをしてみたけど、これでよかったのかさだかではない。


それよりも紫穂だ。


 土屋はそう云うけど、人の精神状態ほど不安定なものはない。

なにかをきっかけに、考えが真逆になるときもある。


僕はあごにぎりこぶしをあてて、思考をめぐらせた。


まずどうすれば、紫穂は僕のつとめる病院に来てくれる?


「あとさ、さっきも云ったけど、紫穂には子供もいるだろう?」僕があれこれ試案しあんしてるさいちゅうに、土屋がくたびれたように声をあげた。「子供を残して自殺する母親がいるかあ?」


 僕はあきれて眉をあげた。「追い詰められて無理心中むりしんじゅうしたっていうニュースを、見たことないのかあ?」


ジャーナリストやってるクセに、気がまわらないやつだな、土屋は。


「ならさ、オレが紫穂の自宅周辺で待機たいきしてるよ。それで異変があれば、すぐめに入る」


土屋のあんに、僕は天をあおぎ見た。


「完全にストーカーだよ、あんた」


「ジャーナリスト、なめるなよ」土屋は嬉しそうに笑った。褒めてないっつーのに。


 僕は空を見つめたまま息をついた。


 なあ、涼。紫穂がついに記憶のふたをあけるぞ。

懐かしいよな、おまえと屋上の階段で紫穂を止めにはいったあの日。


 あの時は、なにがなんだかさっぱりだったけど、いまなら色々とわかるよ。

だからさ、また一緒に紫穂を止めような……。


「なにかあったら、すぐ救急に──119番に電話して。あと僕にも」


なにも起こらないでほしいと願いながら今後のそなえを土屋に伝えたけど、希望は薄く感じる。


「ああ、すぐに電話する……けど植田ってなかなか電話つながらないよな。医者だから、しゃあないんだろうけど」


土屋の云う現実に、僕は口をかたく閉ざした。



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