I'm right here ⑪


 頭にこびりついてきた、新しい恐怖もどうしたらいいのかわからない。

録音テープって、なに? まえに夏樹が話していた……事故に遭う前に、誰かと電話で喋っていたって。


──まさかその時の電話を録音したテープ? 直前の、鳥海先輩の声が録音されているテープ? 声が、聞きたい……でも、会話の内容は? …──怖いっ!


「涼の日記もテープも、あなたに……紫穂さんに差し上げます」お母さんが絞り出すように云った言葉に驚いて、わたしは顔をあげた。「それがあの子の望みであるような気がするんです……へんな話しよね。


私は、ほんとはあげたくないんですよ。

涼の一部だから、ひとりじめしたいのね。

……これは親のエゴなのかしら。


でも、そうは思っても、あなたたちの出逢いや気持ちを考えたら、日記は紫穂さんが持つべきなのかもしれない、とも思うの。


……だけどやっぱり、わたすのは考えちゃうわね。涼の日記を渡すのが、ほんとうに紫穂さんのためになるのか……」


 心底心配している表情をわたしに向けてから、お母さんは男の人のほうをすがるように見た。


「僕は……紫穂さんはおぼえてないかもしれないけど」はじめて、その男の人が口をひらいた。響きのよい声におどろく。「僕は涼と、姫ノ宮小学校から親友をやっていた植田うえたっていいます。植田 おさむです」


云うと植田さんはスーツの内ポケットをまさぐり、座卓のうえに名刺をすべり出してきた。「あの、僕、医者をやってるんですけど、紫穂さん……どうか僕のところに診察しに来てください」


 名刺を見て、正直なところ、わたしの思考は完全にフリーズし、おくした。


名刺に、病院名と、精神科・心療内科の文字が印字されてあったから。


わたしの心の一部が──心の核心なのか、外側にはった心の壁の一部なのかはわからないけど──音をたてて瓦解がかいした。


 ……姫ノ宮小学校からの親友? なんで、どうしていまさらそんな……。


……それならこの人は、わたしのすべてを──なにからなにまで知っているはず。


 …──日記には、なんて書いてあったの? ここにいる人たち全員が知っているわたしの過去──それも、だれにも知られたくなかった過去が──書いてあるのは理解した。


 今日、わたしが鳥海先輩の家族に告白しようとしていたことが書かれてあることも。


 裁判の証拠品になるような日記。

裁判で、いったいどれだけ多くの人が日記をとおして〝わたし〟を知ったの?


 わたしは目をつぶった。

交錯こうさくする想いがつぎつぎと出て、最後に残った自分のほんとうの真意がうきぼりになる。


 わたしが、一番に恐れていたこと。


秘密は……鳥海先輩にだけは絶対に知られたくなかった。鳥海先輩にだけは……!


 それなのに──鳥海先輩は知ってしまった。

だから彼は行動にでた。

それで……巻き込まれた。わたしが選んだ生きかたに。


 鳥海先輩は、わたしを知って、どう思ったの? なにを感じたの?


 わたしを、キライにならなかったの? わたしを、軽蔑けいべつしなかったの?


 追いつめられたわたしはお母さんの言葉を振り返った。脱出する救命ボートを探すように。かつて、精神をたもつために秘密の箱をつくりだしたように。


〝へんな話しよね〟鳥海先輩のお母さんは、そう云ったわよね。

──へんな話し。これほどわたしたちにピッタリしっくりくる表現は、他にあるかしら。〝へんな話し〟よ?


 わたしは決断した。


 わたしの人生の選択はもう過去におわっている。いまは生きるか死ぬかの岐路に立っているだけ。


どの道、わたしには背中を後押あとおししてくれる人が必要なのよ。

崖に突き飛ばしてくれる人の手か、

新しい道に導いてくれる人の手か。


わたしは、けっきょく最期まで臆病のようだから。


鳥海先輩の助けが必要なのよ。たとえそれが冥土めいど土産みやげになるとしても。


「鳥海先輩のお母さん」わたしはささやいた。「先輩の日記をわたしにください」


 お母さんはわたしの瞳のなかに、気持ちのなにかをせ、ちいさな息をついた。


「わかりました。でもね、植田さんの力をきちんとかりること。たよっていいんですからね、私たちを」繋いだままのわたしの手をポンポンとうって励ましてくる。


「それから……」云いだしずらかったのか、お父さんは咳ばらいをひとつ付けてから重々しく続けた。「すべてを知ってから、それから決めてもらいたいんだけど……紫穂さんの意志を優先するから。


…──すべてを知ったあと、どうかもう一度、お線香せんこうをあげに来てほしい。


私も妻も、そう話し合って決めたことだけど、なにより大切なのは紫穂さんの気持ちだから……それで、私たちは待っているから、涼も一緒に」


…*…


 鳥海先輩のお母さんは和室から出て二階にあがると──足音でわかった──、のろのろと時間をかけておりてきた。


 戻ってきた胸には、薄汚うすよごれたふるびた箱と、茶色の表紙のノートが大切に──離したくないように──かかえられていた。


 一目ひとめで無印のノートだとわかった。わたしにも馴染みがあったから。


 お母さんがしずしず座るのを固唾かたずを飲んで待つ。

はやく日記が見たいというはやる気持ちと、おそれがせめぎあってる。わたしを、自滅じめつへ導くかもしれない日記帳とテープを前に。


「ここに涼がいます。くれぐれもお気を確かに」鳥海先輩のお母さんが座卓にそっとノートと箱を置いた。


 古びた青い箱は、スポーツ用の靴……スニーカー? ううん、きっとサッカーで使っていたスパイクシューズの箱ね……。

鳥海先輩はこの箱を宝箱にみたてていたのかもしれない。


 ノートのほうは、茶色の分厚い紙を使った表紙に、黒の油性ペンで走り書きしたような英文がしるされてある。




 〝──All in the name of love──1999〟



 わたしは両手で口をおおった。


 鳥海先輩は、どんな気持ちでこれを書いたの──。


 わたしはお仏壇に振り返って、飾られた鳥海先輩の顔を見た。変わらない、とびきりの笑顔をした鳥海先輩の顔を。


 All in the name of love ──〝すべては愛のために……〟ですって?



 わたしは泣きじゃくりなだら震える手で日記と箱をうけとった。


…*…


 帰りがけの車で、夏樹が植田さんとなにかを云っていたけど、わたしの耳にはほとんど届いていなかった。


鳥海先輩の日記帳を抱きしめていると、彼を抱きしめているような感じがする。


 イオンの駐車場で夏樹は別れしな「明日、電話する」と云った。

わたしは「わかった」と云って、自分の車に乗り込む直前に「今日はありがとう」とつけたした。完全におまけだった。


心底自分が手前勝手だなぁと思ったけど、心はすべて鳥海先輩の日記帳にしがみついている。


そうじゃないとわたしの心と精神が崩壊しそうだったから。


「紫穂、家まで気をつけて運転しろよ」夏樹が釘をさしてきた。


「日記を読むまでわたしは死なないから、大丈夫」わたしは軽く手をふった。



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