I'm right here ⑧


 鳥海先輩のお母さまは、わたしたちをお仏壇のある和室へとおすと

「お茶をご用意しますからね。さきにご挨拶をすませておいて下さい」と、ソワつきのある逃げ腰でそそくささとふすまを閉めてしまった。


だけどわたしは見逃せなかった。

お母さまの目頭に、きらめく涙の粒が大きく揺れていたのを。


わたしの心はざわめきだった。

動揺や戸惑いもある。恐怖や不安感はますますつのるばかり。


だって、どうしてこんなにすんなりとおしてくれたの? どうして優しく包み込むような雰囲気があるの? でもあの人のなかに哀しみはたしかにある。


わたしは今日、門前払もんぜんばらいか、よくて玄関先で一言ひとこと三言みことかわす程度だと思っていた。


それで〝後日あらためて来て下さい……〟そうなる流れだと思い込んでいた。


もしかしたら、今日のうちにあがらせてもらえるかもしれないとも思っていたけど。


だけどその場合は──いまとなっては、この状況の場合ね──わたしは今日、洗いざらいぜんぶ話すんだ。


ずっと開けていなかった秘密の箱を、開けるんだ。そして、わたしと鳥海先輩の死に繋がる。


 そうさとった瞬間、せわしない早鐘はやがねを鳴り響かせていた心臓が、ひややかな鼓動へとうって変わった。


頭の中が真っ白になる。なにも考えられない。


どうやら、わたしの脳細胞は考えようとするのを放棄したみたい……莫大なストレスに対する防衛本能で。


心のほうも静まりかえってる。嵐の前の静けさのように。


わたしの自我じがという自我が跡形あとかたもなく消え失せたよう。


 わたしは木偶でくぼうの人形さながらに、お仏壇の前に正座した。


隣りでは夏樹がお仏壇にむけて手を合わせて瞑想している。

わたしは夏樹とちがって、手をあわせる気持ちがこれっぽっちも無い。


ぼうっと仏壇を見上げる──鳥海先輩の笑顔の写真が目に飛び込んできた。


 色鮮やかで鮮明な鳥海先輩の笑顔。──光り輝く、あふれんばかりの笑顔。


 わたしは、自分の記憶のなかで見る鳥海先輩の笑顔や姿はどこまでも鮮明だと思っていた。


けど写真とくらべてしまったら、記憶のなかの鳥海先輩はどこかぼやけて、くもって見える。

カラーからセピア色になりかけているように。


でも写真は、鳥海先輩の時間を止めて閉じ込めているよう。永遠の笑顔。昔からあった、そしてこれからもずっとありつづける笑顔。……鳥海先輩は、たしかに生きていた!


 涙があふれてくる。


 鳥海先輩との日々は幻だったんじゃないかって、そう思えてしまう夜もあった。


わたしのひとりよがりの幻想で、ひょっとしたら、鳥海先輩そのものの存在がなかったのかもしれないって……ううん、そんなことない! 鳥海先輩はたしかにいた! 


わたしたちの不思議な繋がりもたしかに存在していた。

それをぜんぶ忘れてしまうなんてダメよ! ……眠れない夜のどこかの日、わたしはそうやって自分の記憶にしがみついていた。記憶のなかの鳥海先輩に。


 だけどいま、わたしのほしかった鳥海先輩のはっきりとした笑顔がすぐそこにある。わたしの目にしっかり見えている。


記憶のなかをさがさなくても、手を伸ばせば届くところに鳥海先輩の笑顔がある。


 ……写真に、ふれたい。


 わたしの腰が浮きかけたところで、ふすまがスラッと開いた。

浮きかけた腰がもとの座り位置に縛りつけられる。……なにこれ、すごくもどかしい。


「お線香の香は、心が静まりますね……さあ、お茶をどうぞ」


鳥海先輩のお母さまは、お客様をもてなすのに慣れていた。


座卓に茶托つきのお茶を並べる姿がさまになっている。……その仕草には、こうして何度もお茶を用意して、お線香をあげに来る訪問客をもてなしている過去の姿が垣間かいま見える。


哀しすぎる手慣れた姿……。


みぞおちあたりをきつく握りしぼられてるように苦しい。


「あ、いつもすみません。いただきます」夏樹の口調から軽々しさが消えてる。そんな雰囲気ではないと、夏樹も感づいたんだ。


 夏樹がお仏壇から離れて座卓に寄るあとにつづく。

並べられた五人分のお茶の前に正座したところで、和室に近づいてくる足音が聞えた。──ふたりぶんの。


足音や気配からして男の人。


鳥海先輩のお兄さんと、お父さんに違いない。


わたしのあごのつけねから首筋に、汗がジリジリと流れていくのを感じる。

気づけば、こめかみからも。


わたしは正座のうえでつくっていたにぎこぶしに力を込めた。


「こんにちは」低めの声が軽やかに耳に届いてわたしは顔をあげた。


和室に来た男の人は、短い髪を──ほとんど白髪だ──後ろに流していて、顔には深いしわが刻み込まれていた。

まるでこれまでの苦労をものがたるように。


この人が、鳥海先輩のお父さんなんだ……。


 もうひとりの男の人は、ネクタイ無しのグレーのスーツ姿で、まだ若い人だった。

たぶん、わたしとそう変わらない歳の人……。


ツーブロックの黒髪を、自然な髪の流れで両サイドへ流してる。

フチなしメガネの奥の眼が、したしみやすさをかもしだしている。というか、つとめて心がけでそういう雰囲気をだしているようにしか見えない。


……この人がお兄さん? なんかイメージとまるで違う。わたしに、そんな気をくばる必要なんて少しも無いのに。


 その男の人は、夏樹と目を合わせると、無言でかたくうなずきあった。

腰をひくくした姿勢で、夏樹の隣の位置……お誕生日席に座った。


なに? この二人は知り合いなわけ? ……そうよね、もちろん、そうよ。

夏樹はわたしなんかより、よっぽど鳥海先輩の家とかかわりが深そうだし。


それに友達も多そう……。どこまでも自分がみじめで、おいてけぼりを味あわされている気分になってきた。それに……。


 お父さまとお母さま二人が肩を並べて座卓の向かいに座った姿を見て、わたしは自分がばらまいた不幸のたねがいかなるものであるのかを酷く痛感した。


──わたしは、この人たちの人生もめちゃくちゃにした!



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る