Runaway ⑯


「じゃあケータイの番号を教えてよ。今度、ゆっくり話そう」

わたしはギュッと目をとじて、決意とともに目をあけた。

「ケータイの番号は教えない。夏樹とは、もうこれっきりにする。──二度とここへこないで!」


 夏樹の顔も見ずにつめたく云いきって、それっきり。わたしは待機席にも戻らずにホールの裏をつっきって、トイレに駆けこんだ。


 洗面台の鏡に映る自分の顔色の悪さに吐き気がする。


「紫穂さん! 大丈夫?」

ボーイがトイレにまでついて来て、ドアを開けるなり金切り声をあげた。

「あのお客さんになにかされたんでしょう! 紫穂さん顔色がすごく悪いし、なんか様子ようすもへんだったよ! あのお客〝出禁できん〟にするから、なにがあったのか教えて!」


 わたしは深呼吸してから、ボーイと鏡越しに目を合わせた。


「なにもされてない。……これは、わたしの問題だから。あの人は、なにも悪くない」


 そうよ。これはわたしの問題なのよ。


でもボーイはわたしに一歩近づいて深刻そうな顔をむけてきた。

「でも、あのお客さんになにかされたか、イヤなことを云われたんでしょう? ちゃんと話してよ。じゃないと次につけるをつけられないから……」


ボーイが過保護モードにはいったのは間違いなかった。そりゃ、そうよね。お店の娘をまもるのもボーイの仕事なんだし。


 わたしの次に夏樹の接客を担当するなんて、どの娘があてられるのか知らないけど、とんでもない重荷を背負わせちゃったな。……やりずらいだろうなぁ、わたしのあとじゃ。バトンの渡しかたを間違えっちゃったよ。


 わたしはようやくまともな呼吸ができる体に戻ったのを感じながら、思考もまともに戻っていくのを感じた。

すこしづつ頭のなかのもやがはれてきてる。


「あのお客を呼び込んだボーイって、誰?」

夏樹の情報をすこしでも集めておかないと。

こうして頭のなかがはっきりしてきたら、夏樹の言動の端々はしばしに違和感があったのを、今ならわかる。なにかがおかしかった。


 鏡越しに見ていたボーイの顔が申し訳なさそうにしぶり、伏目ふせめがちになった。

「あのお客さんを呼び込んだのはワタシなんだけど……ごめん、へんな客を呼び込んじゃって」


「ああ、違うの」

わたしは洗面台の蛇口から水を流しだした。流水に手をくぐらせてベタベタする手汗を流す。

めるつもりで訊いたんじゃないの。……あの人、どっち方面からウチのお店にきたのかな? って、気になって」


なんとか平静をよそおって話しを詰めてみた。


「え、ひょっとして、紫穂さんの知り合いかなんかだったの?」

ほんっと、夜の人間ってカンがいいのよね! 助かるときもあるけど、困ることのほうが多いんだから、やんなっちゃう!


 わたしはボーイからの問いかけを、すっとばした。


「いいから、どっち方面からきたのか教えてよ」

ボーイは顎に手をあててキョドキョドと落ち着き悪そうに切り出した。

「……駅方面から来たよ。まっすぐうちの店の前まで」


 ──は? そんなの、ありえなくない? おかしくない?


「駅からピンクのネオン街ここまで来るあいだの、その手前にある他のキャバクラのお店には見向きもせずに、まっすぐウチのお店に来て、ここを選んだってこと?」


──それに、駅から来たって、どういうことなの? 夏樹は同窓会の帰りだと云っていたのに。


ここら一帯の繁華街のどこかが同窓会の会場で、そこから流れてきたのだとばかり思っていたのに……。それじゃあなに? 夏樹はわざわざ電車を乗りいで、ここの駅で途中下車し、わたしの働いているこのお店まで、はるばる来たっていうわけ?


 答えにいきつくと、寒気さむけがどっと押し寄せてきた。

 …──背筋がゾッとする。

 せっかく落ち着いた息が、また、苦しくなってくる。


……あの人は、わたしを調べあげて、ここまでやってきたんだ! それしか考えられない! なんでそこまで!


 あらゆる可能性を調べて、ここまでやってきた。そうじゃなきゃ、こんなところまでわざわざきたりはしない。…──どうしよう。どこまで知られてしまっているの! ──いやだ、誰にも知られたくない!


 …──それなら、もしかしたら、鳥海先輩のことも、まさか全部がほんとうのことで……。


 ここまで考えたところで、わたしはすべての思考を緊急停止させた。


「まあ、そういうことになるね……なに? なんかやっぱり、なにかあったの? お店の外でのトラブルを店内に持ち込むのだけはやめてよ。ここで働いているのは紫穂ちゃんだけじゃないんだからね」


ボーイからの注意も話半分までしか耳にはいらない。


「……やっぱり、出禁にして」

わたしは流水にあたる両手を見つめたまま、ぼんやりげた。

「え?」

わたしの声がちいさくて聞きとれなかったのか、ボーイが確かめてきた。

「トラブルを持ち込もうとしているのは、あののほうよ。わたしじゃない。他のキャストが心配なら、出禁にしたほうがこのお店のためかもね」


おどろくほどつめたい声と、冷たい云いかたが、わたしの口からするする出てくる。


 ボーイがいよいよ身をのりだして、鏡の前に立つわたしと横並びになった。

「それなら、店長に報告しなくちゃならないから、理由をちゃんと話して」

 心配してくれているのはわかるの。……そう、頭ではわかっているのよ、でも、わたしの心と精神がもう悲鳴をあげているの。だからお願い、もう、ほうっといて……!


「話せない」


 かたい口調で断言すると、ボーイはやれやれと苦笑してため息をついた。


「そっか、わかった。……さあ、もう落ち着いた? 待機席にもどろうか? それとも、ここでひとりでいるほがいい?」

 わたしは洗面台によりかかると目をつぶって、不規則な息をフーッ! と吐いた。

「うん、ラストになるまで、ここでひとりでいさせて」

「じゃ、ワタシは仕事にもどるから! なにかあったらめこまずに、すぐに話すこと! いい? わかった?」

「ありがとう」


わたしは笑顔でこたえたけれど、弱々しいものだったにちがいない。だって、作り笑いを浮かべただけなんだから。



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