Runaway ⑫
「逢いたい」無意識に、ちいさな声がでた。
「あ、なんだって?」
夏樹が、わたしの手におしぼりを押しつけながら訊きなおしてきた。
わたしは、無意識にでた言葉を、訂正しなくちゃならない。したくなくても、しなくちゃならない。
「鳥海先輩が、生きているうちに、逢いたかった。生きていなくても、お葬式にいけたら、最期に……顔を、見れたのに……」
「……もう、おせぇーよ」
夏樹は、わたしがおしぼりを受け取らないから、そのおしぼりをわたしの手に投げつけた。
「まあ、一番かわいそうだったのは、鳥海の彼女なんだろうけどな!」
夏樹が声を大きくして云った。
──はぁあ? 彼女? なにそれ?
なんだか知らないけど、腹の奥がメラメラした。
「彼女? なに、鳥海先輩って、彼女がいたの?」わたしは今までと違う、へんなドキドキを感じながら云った。「──まあ、鳥海先輩はあれだけモテていたんだから、そりゃあ、彼女の一人や二人、──このさいだから三人でもいいわよ。そりゃ、いたんでしょうね! 彼女が五人いたって、わたしはべつに、驚いたりなんかしないんだから!」
ん! なに、わたし。なんでわたし、つんけんしているの。
「おまえ、鳥海が女にだらしない男でも、いいのかよ」
夏樹が、きゅうに楽しそうにニヤつきながら云った。
「よくないわよ。それにわたし、鳥海先輩がそんな男じゃないって知っているし、でも、もし、鳥海先輩が女にだらしなかったら、それはそれで……許すけど」
最後のほうはゴニョゴニョ声になっちゃった。
夏樹がおもしろそうに、わたしをジッと見てくる。わたしは視線を泳がせた。
「──許すのは、云いすぎだったかも」と、自分の気持ちに訂正をくわえる。「そうね、目をつぶるくらいなら。──いや、ちがった。大目に見てあげる……くらいなら。いや、べつにいいのよ、彼の人生だし! 好きにしたらいいのよ」
「おまえってさあ、素直じゃないだろう?」
くったくない笑みをうかべて、云いあてられた。
──んん! どうして、このやりとりだけでバレてしまうの!
わたしは見抜かれたのを誤魔化そうと、テーブルに落としてしまったタバコの灰を、おしぼりできれいにすることにした。
夏樹は、
「彼女が云うにはさ、結婚の約束をしていたらしいよ」
パリーン! と、床に落とした灰皿が割れた。──しまった。手が、すべった。
ボーイがすかさず飛んできた。
「紫穂さん? 大丈夫ですか? ──お客様も、おケガはありませんか?」後半のお客にたいする気づかいがおまけみたいになってる。でもそれも、いまは笑えない。
──結婚の約束? その若さで? いやいやいやいやぁ……ないでしょう。ないないないない、ぜったいない。
「ああ、オレはないよ」
夏樹が意味ありげに云った。なによっ! わたしで遊ばないでよ。
「それはよかったです。ここはワタシがかたづけますから」
ボーイがチラリとわたしを見て、ほうきとちりとりを取りにいった。
──ん? そういえばわたしも、そのころに結婚話がもちあがったんだっけ。
当時つき合っていた彼にプロポーズされて、でもいろいろあって、よく考えたけど、結婚はお断りした。
まだ十八の高校生だったし。
さきゆき長い人生で、はやまる必要なんてないじゃない。もっと〝若いうち〟を
でも……そっか、鳥海先輩にも、そーゆー相手がいたのね。ふーん。そうなんだ。
「結婚の約束って云っても、そんなの、ただの口約束だったんじゃないの?
〝
鳥海先輩もそうだったんじゃないの? だって結婚するんだったら、もうできていた
でも、お母さんの云いつけどおりにしてよかった。お母さんのおかげで、わたしもいろいろと考える時間がもてたのよね。
それでわたしは、〝この人のことは好き。けれども結婚をするほどの好きとはちがう。若気のいたりに血迷っちゃダメ〟って気づけた。
いま思えば、お母さんは〝わたしがあやまちに気づく〟っていうのが、わかっていたのね。だから反対もせずに、『考える時間をつくる道もあるよ』と、わたしに教えてくれた。……お母さんって、けっきょくどこまでいってもわたしのお母さんなのよね。
そう、それでね、そうそうにプロポーズをお断りしたの。『あなたのことは大好きだけれども、結婚は考えられない。わたしたちはまだ若いし、もう少し慎重に考えましょう。もっとお付き合いをかさねてからでも、遅くはないでしょう? これが真実の愛であるなら』って。
そしたら当時の彼ったら
そもそも女に手をあげるような人だったら、わたしその人とつき合ってないし。
わたし、わかるのよ。女に手をあげる人がどんな人か。だから、そんな人とはつき合わない。
そう、当時の彼もいい人だった。優しかった。でも、結婚は考えられなかった。……なんか、ちがったのよ。しっくりこないというか……。『この人はちがう』って、ここが、胸の奥のここんところが、そう云うのよ。だから、断った。
まあ、そのあと逆上されて、
でもその彼女も、悲しくて落ち込むのはわかるけど、結婚する前でよかったわよね。
結婚してすぐに未亡人っていうのも、かわいそすぎるじゃない。……ああ、それに、鳥海先輩も女を知れたようで良かったじゃない。──彼も男になれたってことでしょう? そこはその彼女に感謝しなくちゃだね。だって女を知らないままあの若さで──なんて、それこそ未練たらたらでやるせないじゃない」
「……おまえそれ、まじに云ってるの?」
夏樹が、汚いものでも見るようにわたしをねめつけてきた。わたしは鼻を鳴らしてやった。
未亡人のくだりは、たしかに云いすぎだったかもしれない。本人の気持ちなんて、考えたり、くんだりしていなかったから。……でも、わたしはほんとうのことを
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます