Runaway ⑤
夏樹は至近距離の
「めちゃめちゃ高いね。ってことはやっぱり、ノルマとかあるの?」
「うん、ある。……でも、夏樹は気にしないで。……夏樹は、こーいう場所の
ここから身をひいて去るにしても、どっぷりつかってしまうにしろ、どっちにころんでも夏樹のためにはなる。
わたしはメニュー表のよく使う項目を指差して、笑った。
「見て。一番安い飲み物で──これ」
「うあ……まじか」夏樹は眉をつりあげて、まんまるな目をしばたたかせた。
そしてフーと息をふくと、表情を真剣にかえた。「……オレ、聞いたことがあるんだけど、バックとかも、あったりするの?」
どうやら、タブーを聞いているのを承知なようす。そうよね。タブーは、口にするものじゃないものね。わたしたちキャバ嬢も、できるならここは
わたしは夏樹の耳に手をあてて、ヒソヒソと耳打ちをした。
「──あるよ」
「そっか、あるんだ。──じゃあさ、カクテルならたのんでもいいよ。紫穂ちゃんのバックになるんなら」
やった! ……なぁ~んて、喜べない。こんな複雑な気持ちになるオーダーなんて、いままでもらったことがないわよ。
キャバクラのシステムを知ったうえで、さらにキャバ嬢のわたしのためにオーダーするなんて、バカなんじゃないの? だってそれって、わたしがのちのち〝今日は同伴日なの!〟
(注釈:お店が
〝どうしても同伴出勤しなくちゃならなくて……わたし、困ってるの〟なーんてことを云った日には、同伴してくれちゃうんでしょう? それって、まんまといいお客さんになりさがるってことじゃない!
「え、いいの? ほんとに大丈夫?」わたしは顔をひいて、慎重に意味ありげに聞いた。なんだかクイズ番組の司会者になった気分。……ほんと、バカバカしいったらないわ。
だけど夏樹は、わたしの聞きかたを違う意味合いにとらえて〝オレを心配してくれてありがとう〟という顔で、不正解の答えを云った。
「うん、今日のところは大丈夫。すこしは紫穂ちゃんに
ちょっと、なに
もう、この人は、まったくもう……。いったいどうやって
しかたない、とりあえず飲み物だけはありがたくいただくとしよう。なんだかみょうに喉が渇くし。
「夏樹はやさしいね、ありがとう。それじゃあお言葉にあまえていただきます。──お願いしまーす!」
手をあげるとすぐにボーイが飛んできた。今度は手に
「カシオレひとつ、お願いします」
カクテルといっても、わたしにはカシスリキュールではなくて、カシスシロップがはいったオレンジジュースが
アルコールアレルギーのわたしのために、お店が取り入れてくれたフェイク・カクテルだ。でもそれが他のキャストにも大好評をうけて、うちのお店の定番裏メニューになった。むりに飲んで酔わなくてもバックが入るのだから、みんなの体の負担が減ってよかったと思う。
だからフェイクを注文するのは、いつもなら平気。それが当然になっていたし。でも今日は違う。夏樹をとことんだましているようで……罪悪感が芽生えてくる。ふだんならこんなふうにはならないのに……。
注文を受けたニコニコ顔のボーイがなぜかまだ
「そちらのお客様のお飲み物は、いかがなされますか?」
ああ、そう。
そうだったわよね。
そうだった。……えっと、ボトルを注文させるんだったのよね。──どうしよう。わたしはおそるおそる夏樹に顔をむけた。
けど夏樹は、わたしが心配するほど動揺していなかった。むしろ堂々としていて、ぶれない男のしっかりとした雰囲気が出ている。
あら、これはちょっと予想外。
なるほど、これが〝バレないための背伸び〟なわけね。ちゃんとできてるじゃない。すごいすごい。と、心のなかで拍手する。
「外で交渉したとき、客の飲み物はテーブルにある物だったら飲み放題ですって聞いたけど」夏樹が堂々と云ってる。
ボーイの笑顔がすこしくずれた。
「いかにも、そのとおりでございます。では、お客様がべつにオーダーするお飲み物はなし、ということでよろしいのですね?」後半は、あきらかにわたしにむかって訊いてきた。
〝ボトル分のバックがつかないけど、それでいいの?〟と云いたいのよ。
「はい、〝とりあえずは〟カシオレだけで。あ、メニューはまだ見たいから、このまま置いててもいい?」
わたしはメニューをパタンと閉じて、ボーイに困り
「はい、そのままお持ちになっていて大丈夫です。それでは、紫穂さんのお飲み物をご用意します」
ボーイは去りぎわ、夏樹からは見えない角度でわたしにウインクした。〝がんばってボトルをとってね〟と。もう、ほんと、しっかりしているわ。
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