Runaway ⑤


 夏樹は至近距離のわたしに高鳴る鼓動をおさえつつ(そう顔に書いてある)、わたしがでっちあげた〝バレたら危険〟の場の空気を読んで、──危険をおかすスリルの、いけないドキドキ・ヒロインとのロマンス・そしてこれからの展開への期待で高まるワクワクで、さながら秘密結社イルミナティいどむスパイ映画のように──ちいさな声で話しだした。


「めちゃめちゃ高いね。ってことはやっぱり、ノルマとかあるの?」

「うん、ある。……でも、夏樹は気にしないで。……夏樹は、こーいう場所の相場そうばを知っておいたほうが、今後の身のためになると思うの」


 ここから身をひいて去るにしても、どっぷりつかってしまうにしろ、どっちにころんでも夏樹のためにはなる。

 わたしはメニュー表のよく使う項目を指差して、笑った。


「見て。一番安い飲み物で──これ」

「うあ……まじか」夏樹は眉をつりあげて、まんまるな目をしばたたかせた。

 そしてフーと息をふくと、表情を真剣にかえた。「……オレ、聞いたことがあるんだけど、バックとかも、あったりするの?」

 どうやら、タブーを聞いているのを承知なようす。そうよね。タブーは、口にするものじゃないものね。わたしたちキャバ嬢も、できるならここはにごしたいところよ。──でも、あえて教えるのもアリなの。


 わたしは夏樹の耳に手をあてて、ヒソヒソと耳打ちをした。

「──あるよ」

「そっか、あるんだ。──じゃあさ、カクテルならたのんでもいいよ。紫穂ちゃんのバックになるんなら」


 やった! ……なぁ~んて、喜べない。こんな複雑な気持ちになるオーダーなんて、いままでもらったことがないわよ。


 キャバクラのシステムを知ったうえで、さらにキャバ嬢のわたしのためにオーダーするなんて、バカなんじゃないの? だってそれって、わたしがのちのち〝今日は同伴日なの!〟


(注釈:お店がさだめた、お客さんとキャストが一緒に来店する日のこと。お客は同伴料金なるものを別料金で支払い、その金額はそのままキャストに報酬としてバックになるのがほとんど。いわゆる〝時間外勤務の給料手当て〟となる。)


〝どうしても同伴出勤しなくちゃならなくて……わたし、困ってるの〟なーんてことを云った日には、同伴してくれちゃうんでしょう? それって、まんまといいお客さんになりさがるってことじゃない!


「え、いいの? ほんとに大丈夫?」わたしは顔をひいて、慎重に意味ありげに聞いた。なんだかクイズ番組の司会者になった気分。……ほんと、バカバカしいったらないわ。

 だけど夏樹は、わたしの聞きかたを違う意味合いにとらえて〝オレを心配してくれてありがとう〟という顔で、不正解の答えを云った。


「うん、今日のところは大丈夫。すこしは紫穂ちゃんに貢献こうけんできて嬉しいよ」


 ちょっと、なに健気けなげ苦笑くしょうなんかしているのよ。

 もう、この人は、まったくもう……。いったいどうやってさとしたらいいのかしら。

 しかたない、とりあえず飲み物だけはありがたくいただくとしよう。なんだかみょうに喉が渇くし。


「夏樹はやさしいね、ありがとう。それじゃあお言葉にあまえていただきます。──お願いしまーす!」


 手をあげるとすぐにボーイが飛んできた。今度は手に伝票でんぴょうを持っている。わたしは目をぐるっとまわした。やれやれ、ちゃっかりしてるというか、しっかりしているというか、ほんと、まいっちゃう。


「カシオレひとつ、お願いします」


 カクテルといっても、わたしにはカシスリキュールではなくて、カシスがはいったオレンジジュースが提供てくる。

 アルコールアレルギーのわたしのために、お店が取り入れてくれたフェイク・カクテルだ。でもそれが他のキャストにも大好評をうけて、うちのお店の定番メニューになった。むりに飲んで酔わなくてもバックが入るのだから、みんなの体の負担が減ってよかったと思う。


 だからフェイクを注文するのは、いつもなら平気。それが当然になっていたし。でも今日は違う。夏樹をとことんだましているようで……罪悪感が芽生えてくる。ふだんならこんなふうにはならないのに……。


 注文を受けたニコニコ顔のボーイがなぜかまだひざまずいていて、わたしは〝なにか?〟と眉をあげた。ボーイは片眉をピクリと動かして、云いにくそうに口をひらいた。


「そちらのお客様のお飲み物は、いかがなされますか?」

 ああ、そう。

 そうだったわよね。

 そうだった。……えっと、ボトルを注文させるんだったのよね。──どうしよう。わたしはおそるおそる夏樹に顔をむけた。

 けど夏樹は、わたしが心配するほど動揺していなかった。むしろ堂々としていて、ぶれない男のしっかりとした雰囲気が出ている。

 あら、これはちょっと予想外。

 なるほど、これが〝バレないための背伸び〟なわけね。ちゃんとできてるじゃない。すごいすごい。と、心のなかで拍手する。


「外で交渉したとき、客の飲み物はテーブルにある物だったら飲み放題ですって聞いたけど」夏樹が堂々と云ってる。

 ボーイの笑顔がすこしくずれた。

「いかにも、そのとおりでございます。では、お客様がべつにオーダーするお飲み物はなし、ということでよろしいのですね?」後半は、あきらかにわたしにむかって訊いてきた。


 〝ボトル分のバックがつかないけど、それでいいの?〟と云いたいのよ。


「はい、〝とりあえずは〟カシオレだけで。あ、メニューはまだ見たいから、このまま置いててもいい?」

わたしはメニューをパタンと閉じて、ボーイに困りみを見せた。

「はい、そのままお持ちになっていて大丈夫です。それでは、紫穂さんのお飲み物をご用意します」

ボーイは去りぎわ、夏樹からは見えない角度でわたしにウインクした。〝がんばってボトルをとってね〟と。もう、ほんと、しっかりしているわ。



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