参(1)


 空は黒くなり、辺りは闇に包まれる。夕日が山々の間へ落ちてからどれほど経っただろうかという頃。色沢国の国境付近の森――そこにひっそりとある古寺から、一人の男が出てきた。


「では、佐紺殿、琥珀殿」

 男――鴇羽蘇芳は、寺の小さなお堂を振り返る。

「行ってまいります」


「ああ、」


 蘇芳の紅い瞳に映るは、青い髪を一つに束ねている若き侍。彼――真田佐紺は、本堂の入口の柱にもたれかかって、腕を組んでいる。


「琥珀はもう寝ちまった。まだこんなに早いのに」

「疲れていたのでしょう」 

 

 蘇芳は微笑む。佐紺の立つ向こうには、横になっている黄色い着物の少女の姿が見えていた。


「佐紺殿が残ってくださると聞いて安心です。やはり琥珀殿を一人でおいていくのは心許なかったので……ありがとうございます」


 蘇芳が頭を下げる。佐紺は少し照れたような素振りを見せながら、言葉を返した。


「いや、まあ……正直、俺も家に帰りたくなかったし」


「帰りたくなかった? 何故でしょうか」


 旅人は眉を寄せて尋ねる。

 伏し目がちに笑う若侍。


「ちょっと、な。反抗期ってやつかな」

「反抗期? 十九でそれでは遅すぎでは? まさか佐紺殿……精神年齢は二歳……」

「そりゃぁ反抗期じゃなくてイヤイヤ期だ!」

「かわいいですね、二歳の佐紺殿」

「うるせぇ! 違ぇっての! 俺のことはいいだろ、別に!」


 佐紺がツカツカと歩み寄り、蘇芳のことを思いきり突き飛ばす。旅人が浮かべるは、余裕の笑み。


「おっと」

「笑ってねぇでさっさと行け! そして早く戻ってこい!」

「はぁい」

「気の抜けた返事をすんじゃねぇよまったく……」

「すみません」


 なおも蘇芳は口角を上げながら答える。ついに佐紺がキレた。


「早く出てけーっ!」


 青髪の叫びが、夜の森に響き渡る。ようやく鴇羽蘇芳がフラフラと夜道に出ていった。佐紺はその後ろ姿が夜の闇に消えるまで見送り、ふと溜息をつく。


(あいつ……本当になんなんだ)


 出会った最初の頃は、その強さに圧倒され、何やら抱えていそうな妖しい瞳の影が気になったが――今は。


(ただの変な旅人じゃんかよ。あんなにフラフラとした足取りで出ていって大丈夫なのか……?)


 鴇羽蘇芳、よくわからない謎の男。


(禍羅組に見つかって殺されねぇことを祈るぜ……)


 佐紺は踵を返し、琥珀の眠るお堂へと入っていった。



 ***


 

「さて、と」


 蘇芳もまた、少し道を行ったところで振り返り、佐紺の様子を。向こうはこちらの姿が見えなくなったと思ったのか、くるりと方向を変え、寺へと戻っていく。


 そう、蘇芳には見えていたのだ――この明かりなど無い夜闇の中、青髪の侍の後ろ姿が。 


「昔につちかったものが、こんなところで生きてくるとは」


 蘇芳は苦笑する。


「思いもよりませんでしたね」


 暗闇の中でも的確に相手の位置を捉えることができる、暗黒の視界に慣れた瞳――。今、蘇芳の眼は、夜の猫のように光っていた。


「先を急ぎましょう……佐紺殿にも、早く帰れと言われてしまいましたし」


 蘇芳はくるりと向きを変えた。目指すは森の出口――椿峰山の麓だ。


 蘇芳の左足が軽く地面を蹴った。その瞬間跳躍する身体。彼は夜の闇を駆けてゆく――その速さは風のごとく、しかし足音はなく。陽炎のように捉えどころの無い身のこなしだ。


(さて――行きますか)

 

 蘇芳は更に足の回転を速める。あっという間にその姿は、道の向こうへと消えていった。

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