最終話
◆
すべての行為を終わらせて、彼は布団の中に包まっていく。道連れにするように彼は私を腕で抱えていたけれど、次第にそれは力を失って、彼は寝息を静かに立てた。
……どうしても、眠ることができなかった。
彼の唾液によってべたついてしまった胸の感覚。布が肌に引っ付く心地の悪さ。股下に垂れて仕方がない粘液の感覚。そのすべてが気持ち悪くてどうしようもない。
思い出すように嘔吐感が身体を支配する。ここでえずくわけにもいかない。私はトイレへと足を運んだ。
かすかな暖房の空気消えてしまっていて、家の中には少しも残っていない。床は完全に冷え切っていて、素足がフローリングをなぞるたびに背中へと寒気が走る。震える身体を抱きしめながら、私は狭い個室の中に逃げ込む。
逃げ込んで、溜息。そうして吐き気。便器を見るたびに、それが本能だと言わんばかりに身体を嘔吐感が締め付ける。きっと、どこであっても吐き気を想うのは変わらないのだろうけれど。
今日だけで受け取ってしまった汚れを考える。
人との関わり、そこから派生する物のやり取り、それらを取り込む自身について。
取り込むたびに私は汚れて、穢れて、死んでいく。喪失していく。際限なく私は地に落ちていき、私の中にあった魂が死んでいく。
えずきが止まることはない。私は便器にすべての嫌悪感を吐き出す。衝動のまま、私は身体がしたいようにすべてを好きにさせた。
なんで、こんなことをしているのだろう。
そう思ったら駄目だ、そんなことはわかっているはずなのに、独りになればそれを反芻する思考が止まらない。
散々吐きこんで、私は嗚咽だけを口に留める。嗚咽から呼吸を整えて、更に深く呼吸をする。落ち着いたと実感を覚えてから、私は便座に座り込む。股に張り付く下着の感触が気持ち悪くて、私は下半身のすべてを晒す。
嫌悪感を忘れるために座り込んだまではよかったが、それでも私の中から垂れていく体液のすべてが感覚に伝う。それらはトイレの中に吸い込まれていくけれど、一部残ってしまった乾いた体液の感覚が、どうしても痒くて仕方がなかった。
もう、こんなことを繰り返したくはない。いつになればこれを終わらせることができるのだろうか。
心の底から思っていること。でも、止められない、止めることはできない。少なくとも自分ではそれを選択しない。
どうしてこうなってしまったのか。どうしてこんなことをしているのか。それらを考えることはもうやめた。答えはいつも一つだけ。一つだけしかない。
私は自立しなければいけない。自立して、姉から離れるようにしなければいけないのだ。姉の不幸につながる私は、ここにいてはいけない。
すべては姉のために。
重ねる汚れも、非行の数々も、こんなことをしているのも、すべては姉のため。姉のために、私は終わるまで繰り返さなければいけない。
その度に私の中が死んでいくことになっても構わない。どうでもいい。身体さえ生きていれば、姉は喪失することなく、幸せを謳歌してくれるはずだ。だから、生きて、自分の中にあるものを殺すだけの生活を続けるだけ。そうするだけで世界は報われる。姉は報われる。私も報われる。
それがいい。それだけがいい。それ以外に望むことはない。もう、私は死んでいるも同然なのだから。
「……ああ」
私は改めて喪失する心地を覚えて声を出す。
でも、これでいい。
これでいいはずなのだ。
私は立ち上がって垂れ落ちた便器の中を見ずに流す。勢いのいい水音、すべてを洗い流すような、そんな心地さえ覚えた。
そう思おうとしても、結局罪悪感を拭うことはできなかったけれど。
◇
学校から帰って、いつも通りに支度をする。
隠していた携帯も煙草も財布も、彼には見つかっていないようで、それに安心感を覚える。私はそれらを上着の中にいつも通り持ちながら、そうして支度を重ねる。財布の中に小銭はないので、適当に道中で札を崩すことを考えながら、私は外に出た。
病院までの道のり。
冬の日の陰りは早くて、夕焼けへと近づこうとしている。それに焦りを感じて、少し足を急がせる
吐く息は白くなっていく。白くなって霧散する。その心地が少し楽しくて、はあ、と息を深く吐き出すことを繰り返す。
「……あっ」
道の最中で見かけるゴミ捨て場。
そこで、思いついたように煙草を放り投げる。
どうせ、家で捨てることはできないし、ここらで捨てておくのがいいだろう。
だって、私にはもう必要がないものから。
◇
病院に入って、外との空気の温度の違いに落ち着きを覚える。病院の中はすべての人を抱きしめるみたいに心地のいい暖かさが広がっている。
肺の中にあった外から連れ出した冷たい空気を吐いて、私は入り口の近くにある自販機に向かう。
いつも通り右の自動販売機に立って、右下の方に隠れているコーンポタージュのボタンを眺める。
このために小銭は用意してきた。だいぶと嵩んでしまった財布のじゃらじゃらとする音に耳を傾けながら、私はいつものようにコーンポタージュを買う。ガシャ、とあからさまに大きな音が聞こえることに満足して、私はそれを取り出す。
冬の風に冷え切っていた手の表面が、抱えたコーンポタージュの温もりに浸されていく。心地のいい感覚を覚えながら、私は姉のいる病室に向かった。
◇
引き戸を開けるとがらがらと音が鳴る。その音に視線を引っ張られたらしい姉と目が合うのを感じた。それを合図として、今日も来たよ、と声をかける。
慈しむような姉の瞳。本当に、心の底から安堵感を覚えることができる姉の視線。
それだけで私は報われる。
それだけで私の心が満たされる心地がした。
病室に入って、中の様子を確認する。病室には姉だけしかいない。それに胸をなでおろす。
そこに姉の旦那が、彼がいないことがどれだけ嬉しいことなのかを反芻して、それが少しだけ後ろめたくなった。
「あら、コンポタ買ってきたんだ」
両の手で抱えたコーンポタージュ、姉の視線が私の手元に移る。なんとなく思い立って「いる?」と聞いてみると、姉は少し迷った後に、貰おうかな、と頷いた。
◇
幸せ。幸せな時間。
これからは、もっと幸せな気持ちで生きることができると思う。
そんな予感に期待をしながら、姉との時間を過ごす。
◇
「今日こそ触ってみる?」
姉は私にそう声をかけた。姉の腹には昨日も触ったはずだったけれど、そういえば自ら触れようとしていなかったことを思い出す。
私は促されるままに手を伸ばした。
別に興味が生まれたわけではないけれど、姉の幸せを一緒に味わうように、私は姉の腹の温もりに浸った。
コーンポタージュよりかは冷たいかもしれない体温。内側から感じる胎動のようなものを感じて、私は作り笑いをした。
「本当に、元気だね」
私がそう声をかけると、姉はにっこりと笑うようにした。
私はそのまま、姉の中にある命に祈りを込めるようにそれを撫で続ける。
(私の中で殺した魂が、せめて姉の中で安らかに眠ってくれますように)
そんな誰にも届かない願いを込めて、姉との時間を大切に過ごした。
あいのぽたーじゅ 楸 @Hisagi1037
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