第6話


 車の暖房の風は心地が良かった。頬に血が回る感覚がして、冷えてしまった末端を頬で温めたくなる。そんなことをぼんやりと思いながら、車窓からの景色を呆然として見ている。


 特に男と会話が生まれるわけでもない。いつものこと。男も話す気はないらしいし、私も何を話せばいいのかわからないから、これでいいと思う。時折、男の咳払いに合わせるように私も咳を出しそうになるがこらえる。どことなく長く感じてしまう時間だった。


 そうしてアパートの前まで車がたどり着く。目の前にある暖かな心地を忘れるように、私はドアを開けた。ふらふらとする身体を一瞬ドアにもたれながら、なんとか自立をしてドアを閉める。出た瞬間に頬を撫でる冬の寒風が肌に痛いと思った。


「また今度もよろしく頼むよ」


 黒く染まっている車から抜け出すと、車の窓を開けて声をかけてくる男の姿。


 ふらつきをなんとかふんばりながら、こちらこそ、と返す。それ以上に感謝の言葉を伝えることができれば好印象だっただろうが、それをする余裕が私にはなかった。


 言葉を吐く際には口角を上げて笑顔を印象付ける。きちんとできていたかはわからないけれど、男は満足そうなニヤつきを見せて車を走らせていく。私はその姿をアパート前の街灯から見送った。


 そして、独りぼっち。電灯の明かりに影を佇ませる。そこから見えるアパートの自室を見つめて、溜息をついた。


 玄関から見える曇り窓は明るい。電灯がついている。私が消し忘れたということはないはずだから、きっと彼が帰ってきているということだ。


 ──吐き気がする。吐き気がする。吐き気がするけれど、しょうがない。どうでもいい。仕方のないものだと思い込む。


 私は何度か嗚咽をかみ殺すように溜息を吐いてから、上着に隠していたものを思い出す。家に入って、すぐには隠せないかもしれない。そんな不安を抱えて、ポケットからそれらを取り出した。


 携帯、たばこ、財布。そのどれもが姉も彼も知らない持ち物。見つかるわけにはいかない。見つかって、なにかを悟られるのは嫌だった。


 嫌な気持ちになりながら、私は煙草に火をつける。無駄に二桁の数字を飾った表示を見て、不快な心地よさが頭に響くのを感じた。





「遅かったな」


 玄関をくぐって、部屋の灯りを視界に入れた。


 適切な明かりがない場所にずっといたせいか、きちんとした部屋の電灯を眩しく感じる。手で遮りたくなる衝動があったけれど、変な行動をしないように意識して、私は家に上がり込んだ。


「ちょっと、友達と遊んでいました」


「ふーん。まあ、別に何でもいいけど」


 彼は興味がなさそうに言葉を吐く。彼の傍らにはお酒の瓶。いつもコンビニで買ってくる、コップみたいな小さいお酒。


 彼がちょんちょん、と手招きする。こちらに来い、と促すように。彼と距離を近づけたくはないけれど、そういうわけにもいかず、足音をドタドタとさせないようにゆっくりと赴く。


 なんとなく、お酒臭いと思った。でも、それが彼のものなのか、私のものなのかはわからない。でも、きっと彼の匂いだ。日本酒の匂いがするから。


「小学生が深夜まで遊ぶとか、本当はいけないんだぞ?」


「……はい」


 私は何の感情も持たずに声を吐き出した。心臓を網で縛られる感覚がする。


 彼はニヤニヤとした表情をして、そうして私の肩を、胸を、腹を、股を、ひとつの線のようになぞる。


 くすぐったさと、嫌悪感。身体が一瞬びくっと反応してしまう。それを彼はとても楽しそうな顔で見つめた。


「アイツには黙っててやるから、いつも通りにさ、わかるよな」


 私は、吐き気を殺しながら、それに頷いた。





 微かな暖房しか機能していない部屋。優しさの欠片もない愛撫。無理矢理に彼の手でかき回される私の虚。一瞬の裂けるような痛みの反芻。先ほど出された男の体液がバレないかの不安。それでもバレなかった安心感。腰を突き出す指示。あてがう感触、イラついているらしい声。滑りが足りないらしい。彼は私にそれを咥えさせた。苦しい。頭を無理に強制される感覚。寒い、苦しい。勢いのまま喉元に深く刺さる。嗚咽、苦しさ。吐きそうになると彼は満足そうな顔をした。叩かれる臀部。痛くて熱い。無遠慮に私の虚を開かれる感覚。慣れてしまった痛みの一つ。彼は奥を深く殴る。心地よさを求めて無理矢理にかき分ける。


 出すぞ、と彼の声。


 喪失、喪失、喪失。


 何かの喪失。すべての喪失。私の喪失。


 うっ、と彼の喘ぎ声が耳に届く。


 受容する、温もりのある苦しさ。


 喪失、喪失、喪失。


 死んでいく、死んでいく。


 数ある非行を重ねるたびに、私の中にある心は、魂は死んでいく。


 汚れを重ねて死んでいく。


 煙を重ねて、酒に浸って、死んでいく。


 奥に当てつけてくる、彼の体液の感触。


 汚れてしまったという、何度も行った自覚。


 ──ああ、私の中にあるものは死んだんだなぁ。


 呆然とした意識の中で、私はそんな実感を覚えた。

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