第5話


「本当に上手だね」


 老紳士、とは言えないただの中年。スーツを着ていることから仕事帰りなのが伝わってくる。鼻腔をくすぐる少しの煙草臭さを私は無視した。


 男が私の頭を撫でる。


 いや、きっと撫でているわけではないのかもしれない。手つきは優しさにあふれていたけれど、私の髪が彼のものに巻き込まれないようにしているだけかもしれない。


 どっちでもいい。私もそっちの方が楽だから。


 歯を立てないように意識。口の中を舌で覆い隠すように、彼のものを咥えこんでいく。彼がいつも望んでいるように、えずきそうになるほどに深く呑み込んでは、それを吐き出す。彼曰く、喉を使っているときのほうが気持ちはいいらしい。苦しさはあるけれど、既に慣れている。だから、さっさと彼が果てを迎えるために喉を酷使する。


 ──嗚咽。


 空っぽな胃から体液が流れるのを感じるけれど、行為を止めることはしない。


 私も、この男も。


「いやあ、本当に小学生なのかなっていつも思っちゃうよ。ああ、毎回言っているから聞き飽きたよね。でも、本当に上手だよ。……そうそう、裏側の方もね」


 私にとってどうでもいい言葉を中年は吐き続ける。誉め言葉のつもりなのだろうか。でも、何も感じ取ることはできない。


 先端まで呑み込んだものを解放して、舌先で転がすようにする。変な酸味を舌先から感じるけれど、やはりそれもどうでもいい。今は頭を働かせずに、ただ頭を動かすだけ。


「……うん、いいよ。ありがとう」


 彼が私の肩をちょんとつつく。これはいつもの合図で、もう口での奉仕は十分ということだ。


 それなら、後の流れは簡単。


「いつも通り、生でしていいんだよね」


「大丈夫です。いつもみたいに中に出してくれると嬉しいです」


 本当に健気な子だね、と中年は言う。私はそれに偽り笑顔を浮かべながら、男とまどろむための体勢に切り替えた。





「煙草、本当に好きなんだね」


「そう、ですね。なんか、吸いたくなっちゃうんです」


 別に、好きではない。でも、いろいろ物事には必要なことがある。大人になるためには必要なのだから、仕方がない。


 すべての行為を終わらせた後、私は彼からもらった煙草を肺に取り込む。


「毎回ひと箱ずつあげるのも可哀相かなって思うんだけど、本当にひと箱でいいの?」


「大丈夫です、なくなったらまたお願いするだけですから」


 家に隠せるような場所はない。財布でさえぎりぎりのところなのだから、まとめてもらうことなんてできない。ひと箱だけもらって、懐に忍ばせるくらいしか、私にはできないのだ。


 男はそんなこともつゆ知らず、ははは、と笑う。


 男の口の粘膜がねちゃぁ、と擬音を立てそうな雰囲気を覚えた。全部搾りとられちゃうなぁ、と冗談かもわからない言葉を男は吐く。


 それでいいなら、私の中ですべて吐き出せばいいとも思った。


「それで、続きはどうしますか?」


「そうだなぁ、ちょっと休憩してからでもいいかな。時間とか大丈夫?」


「……大丈夫です」


 頭の中に彼の顔が思い浮かんだけれど、しばらくは姉と一緒に過ごす、とか言っていたような気がする。もし帰ってきたとしても、彼とは一緒に過ごしたくないから、これでいい。


「あっ、そうだ。この前頼まれたお酒とかも用意したからさ、飲みながらやってみる?」


「本当ですか。嬉しいです」


 作り笑い、偽り笑い、薄ら笑い。


 ……でもお酒を用意してくれたのは嬉しかった。


 そんな自分がどうしようもなくて、結局本物の笑顔を浮かべることはできなかったけれど。





「うう……」


 ふらふらする感覚。足の運びがおぼつかない。手の動きさえも鈍感で、壁にもたれながらじゃないと行動することが難しかった。


 ぽた、ぽた、と私の中から垂れていく男が吐精したもの。


 ──思い出すように、吐き気、吐き気、吐き気。


 えずきが止まらない。えずきが止まらなくて、どうしようもない。お酒のせいだろうと思う。そう思えた方が楽だから、そう思うことにする。どう思うにしても、結局目の前の苦しみが変わるわけではないが、私は精神的な楽さを考えていたかった。


 男に嗚咽を見られれば、もしかしたら関係を続けてくれないかもしれない。態度が悪いと、見限られてしまうかもしれない。それは困る。


 しばらくは、せめてもうしばらくは関係を続けなければいけないから、必死に吐き気をかみ殺す。


 透明のガラスで覆われたシャワールーム。湯気で曇ってくれている。……それなら男はどうせ見ることなんてできないだろう。


 ……そんな考えが湧く。だから。


「……ぅぉぇぇ」


 諦めて思いのままにそれを口の中から吐き出した。それでも声を殺すことには意識を向けながら、胃の中にある物を空っぽにする。


 それでも逃れられない、ふらふらする感覚。お酒とはこういうものなのか、と呆然としながら考える。すべての感覚がぶれるのを、温水にあたりながら認識した。


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