2024.12.11──水垢離

 その国では厳しい防疫対策を敷いている関係で、入国をする前に1km以上の長さを誇る消毒液のプールを遠泳しなくてはならない。今日も一人、入国希望者がわずかな荷物を身体に巻き付け、プールに飛び込んだ。消毒液の水しぶきが上がり、辺りにアルコールの臭いが漂う。

 消毒液の中を泳いでいく入国希望者は顔にシュノーケルを装備している。1kmを泳ぎ切るため出来るだけ呼吸を確保しておくという目的もあるが、第一は目や口の中に消毒液が入り込むのを防ぐためだ。全てを泳ぎ切っても、国に辿り着く前に大量の消毒液に身体を侵され、そのまま命を落とす入国希望者が毎年後を絶たない。

 200mほど進んだだろうか。入国希望者は少しスピードを緩め、プールの底にジッと目をやった。深いプールである。水深は10mを超え、まるで海や川を泳いでいるような錯覚さえ感じる。しかしここに満ちるのは水ではなく消毒液であり、辺りにこの中を泳ぐ生命体は自分以外に見つからない。そしてプールの底には、ここを泳ぎ切る前に力尽きたかつての入国希望者たちの遺体が、消毒液によって腐りもせずに点々と横たわっているのだ。そしてその数は、プールを先に進むに連れて増えていくことだろう。入国希望者は目線を先に戻し、再び速度を上げる。

 500mの折り返し地点を超え、600m、700……延々と泳ぎ続けたことにより、段々手足の感覚が曖昧になってきた。だが、ここで力を緩めれば再び泳ぎ始めるのが困難となり、疲労感から目を逸らしながら、ただ消毒液の中を突き進む一つの船のようにがむしゃらに進んでいく。

 900m。残り100m。もはや体力の限界を超え、なんとしてもその国に入ってやるという気力のみが、入国希望者の身体を動かしている。今、プールの底を見れば、その気力を根こそぎ奪いかねない者達が山のように堆積しているが、この入国希望者は随分前から目を瞑って泳ぎに集中していたのが幸いし、それを見ることは無かった。

 最初の内は律義に数えていた距離も、今ではどれだけ数えたのかも忘れ、ただ、いつ終わりが訪れるかも分からない冷たい消毒液の道を、入国希望者はひたすら歩んだ。シュノーケルをしていても息は絶え絶えとなり、時折少量の消毒液を飲み込んでしまうこともあった。だが、その量が致死量に達する前に、入国希望者の冷え切った手が、それよりも冷たいプールサイドの端を掴んだ。

 こうして、全ての汚れを落とした新たな入国者が生まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る