2024.10.30──鮫の形の双眼鏡

 私のお気に入りの道具の一つに、鮫の形をした双眼鏡がある。

 どこぞの水族館で買ったか、海水浴場近くのお土産屋で買ったかは思い出せないが、そのいかにもな造形をした、子供向けのチープな双眼鏡が、無性に心の琴線に触るのだ。

 この双眼鏡を覗いていると、時々不思議な感覚に陥ることがある。山の上で使っても、家の中で使っても、どこからか潮の薫りがしてきて、まるで今海岸沿いに立っているような、そんな気持ちになるのだ。

 この双眼鏡を買った時の思い出が、こいつを使うときに仄かに思い出すのか知らないが、その感覚に入った時は、決まって妙なものを私は見つける。

 うんと小さな子供の頃、魚の形をした雲を友達と見つけてはしゃいだりしたが、この双眼鏡で遠くを見ると、山の上だろうと家の中だろうと、一匹の魚が空中を泳いでいるのを見かけるのだ。

 それはおそらく幻覚だろうが、その魚の存在感は妙に生々しく、双眼鏡越しに見ていると、独特なツンとした臭いを私の鼻が捉える。ずっと見ていると、どういうわけか空腹感を覚え、口から涎が垂れそうになったことさえある。

 その日は特に、宙を泳ぐ魚の姿がずっと近くに見えた。私の存在を知ってか知らずか、我が物顔で空間を泳ぎ回る魚の姿に、私は激しい空腹を覚えた。

 スッと手を伸ばすと、苦労すれば届きそうな位置に魚が居ることが分かった。私は息を殺し、魚の動きが落ち着くのを待って、グワッと手を広げその生意気な尾ひれに掴みかかった。

 だが、魚の身体はぬるぬると粘性があって、掴んだその手は簡単に滑り、魚はどっかに行ってしまった。双眼鏡を目から離すと、磯の薫りも魚の臭いも消え失せ、先ほどまであった空腹感も無くなっていた。

 あれ以来、あの魚はずっと遠くの位置をキープし続け、なかなか近くには来てくれなくなった。双眼鏡を使っている時は、そのことがとても腹立たしく、しかし双眼鏡を外すと、そのことに安心感を覚えるのだ。

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