2024.09.05──香医師の思い出

 香医師の主な仕事は、人々の記憶を治すことである。

 事故や病気が原因で記憶を失った人に関わり、家族や友人達から情報をいただきつつ、その人物の「思い出の場所」へ足を運ぶ。そこで印象的な香りの素を収集する。それは小学校からの帰り道に咲いていたツツジの香りだったり、家族旅行ので訪れた海の潮溜まりの香りだったり、仕事で使うインクや用紙の香りだったり……その人物の人生の進み具合によって、香りの種類も変わっていく。

 そして出来上がったお香を持って、記憶を失った患者の目の前で香を焚き、立ち上る思い出の籠った煙から、記憶を蘇らせるのだ。

 香医師の手によって記憶が戻る確率は、三割弱といったところ。あまり高い数値とは言えないが、投薬治療や外科手術を用いらない安全性が好まれ、専属の香医師を雇っている大病院もいくつか存在する。

 旗守松雄はどこにも所属していないフリーの香医師だが、その腕は広く知れ渡っており、年に幾度なく記憶喪失患者の下に訪れ、その治療に当たっている。

 今日はそんな患者の一人である、幼い少女に面会中だ。彼女も当然記憶喪失なのだが、他の患者と異なる点は、彼女の家族、友人、住居、本名さえ分からないということだ。少女は大規模な土砂災害の現場にて救出された子であり、その時から一年以上が経っても身辺の一切が不明で、ずっと病院の一室に預けられている。

 記憶を蘇らせる手掛かりが無いとき、香医師は過去の診察の事例を参考に様々なお香を作成し、それを一つひとつ患者に嗅いでもらうことにしている。そうやって記憶の取っ掛かりを見つけて治療を次のステップへと進めていくのだが、一年以上を費やしても、少女の記憶に触れる匂いを、松雄は未だ見つけられていない。

 今日持ってきた十数点のお香も、目覚ましい効果は発揮出来なかった。うーむと眉間に親指を当てて悩む松雄に、少女がフフッと笑った。

「なんかわたし、このまま記憶が戻らなくてもいい気がしてきました」

「何てことを言うんだ」

 松雄がムッとした顔で言うと、少女は微笑みながら返答した。

「だって、わたしが今までどんな人生を歩いてきたのだとしても、今こうして先生と一緒にお香を嗅いでいることより、楽しい思い出なんてなさそうだもの」

 それが少女の本心だとしても、松雄は医者として「それは良かった」と言うことは出来ない。思い出したくもない記憶の一つや二つ人間には必ずしもあると思うが、どれ程おぞましい記憶であろうと、記憶が人間の根本を形作っているのだと松雄は信じている。

 この少女も、香を嗅ぎ続ける穏やかな現在に埋没させるわけにはいかないのだ。松雄は荷物をまとめ、新しい香りの素を探す為、少女の病室を後にするのであった。

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