2024.08.11──インクの一滴にも魚は泳ぐ
ペンの滑りを良くするために生み出されたリミナルインクルージョンは、魚型の小さな生物だ。普段はインクカートリッジの中に数十匹が生息し、インクの中で絶えず流れを発生させている。この流れが、ペン先へスムーズにインクを流し、滑らかな書き心地を実現させているのだ。
ボディが透明なプラスチックのペンだと、内蔵しているインクカートリッジの様子がよく見えるが、基本的にインクは濃い色をしているため、その中を泳ぐリミナルインクルージョンの姿はハッキリとは確認できない。インクカートリッジの内壁に近付いた際に、その小さな体がぼんやりと映る程度だ。それもペンをじっくりと観察していなければ見られないものであり、普段のようにペンを走らせている内はリミナルインクルージョンのことなど気にも留めないだろう。
しかし近年、彼らの姿を確認するためだけのペンとインクカートリッジが開発された。ペンのボディは透明度が高い特殊なプラスチックで、インクカートリッジも同じ材質で作られており、その中に入っているインクもまた透明だ。とうぜんこのインクでは字は書けない。その代わり、リミナルインクルージョンの泳ぐ姿を、完全に視認することは出来る。ペンと呼ぶよりは、葉巻型をした細い水槽といったところだ。
PCやスマートフォンが多く普及し、ペンを扱う人間が減るに連れて、この全透明のペンは人々の間に広まった。リミナルインクルージョンは文字を記す為の道具ではなく、人々の心を癒す観賞用ペットへと変化したのである。
私も仕事ではほとんどペンを使わなくなり、もっぱらキーボードで文書を作成するようになった。自宅にはペンを数本置いてあるが、件の透明ペンは一つも持っていない。どれも通常色のペンである。
黒インクの中を泳ぐリミナルインクルージョンの姿を断続的に観測しながら、私は遠い昔の文豪たちが記した小説作品に思いを寄せる。彼らが原稿用紙に引いた黒い線の中には、幾千匹ものリミナルインクルージョンの死骸があるのだろうか。それとも、紙面に引かれた平らな黒線の中でも、彼らは元気に泳ぎ回っているのだろうか。
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