2024.05.05──逃げた標本

 貴重なホルマリン漬けの標本が消えた。信じられないことだが、「逃げだした」と表現してもいい。後には蓋の開いた空のガラスケースのみ残されていた。

 それは推定100年前に捕獲され、標本となった生物だったが、それが哺乳類なのか、鳥類なのか、魚類、昆虫、未だに確実な特定に至っていない代物である。一時期私はこれを菌類の一種ではないかという論文を書いたが、それは荒唐無稽なものとして学術誌にも取り上げられなかった。

 それはどうでもいい。今はとにかくその標本を見つけることが先決だ。私は助手数人と共に、床に残ったホルマリンの跡を追いかけている。そこに残された足跡らしきものも、私が知っているいずれの生物にも属さない奇怪なものだ。そもそも足の跡であるかも分からない。

 痕跡を追ってしばらく進んだ我々だったが、そこで一度足を止めた。床に続いたホルマリンの跡はそこで途切れ、目の前には背の高い本棚がそびえ立っている。この中のどこかに紛れ込んだに違いない。我らが研究室の誇る豊富な書物が並ぶ棚だ。一冊一冊調べていく内に、また標本がどこかへ行ってしまうかもしれない。

 そこで、一番若手の研究員が後ろから追いついてきた。件の標本を捕まえた際の論文を調べさせていた者だ。彼が私に耳打ちした内容は、今の状況を打破するのに最適なものだった。

 私は表紙が革で、かつ赤い本を重点的に調べるように指示した。古い形式のものでそこまで数はなく、三冊目の本を開いた時、まるで栞のように薄っぺらになった標本が、私の顔を睨みつけた。

 無事にその標本をケースに戻すことが出来、研究室一同は安堵した。大変な出来事だったが、これを通してまた、この生物の研究が前進したと思えば安い授業料である。

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