第2話
「だけど、私はそんな千代子さんのその物静かなところがいいと思うわ」
「――そうでしょうか。私は皆さん程、気軽にお話できませんし笑わせられるようなこともできません」
ふふ、とそんな千代子の言葉に微笑み、そしてゆっくりと瞬きをして足元を見つめる。釣られて千代子も視線を落とす。
からころ、と下駄が神社の石畳を蹴って音を鳴らす。二人連なる下駄の音に耳を澄ませば、周りの喧騒がかき消えて、心に静かな音色を響かせる。
そうしてまた雛子がそっと千代子の手を握る。柔らかな手の感触に一瞬、ちらりと雛子に視線を向ける。
彼女は変わらず足元を見ていた。赤い鼻緒の艶やかな黒の下駄。千代子はまた真似するようにゆっくりと瞬きをして自分の下駄を見つめる。
「――せわしなくてね。疲れてしまうのよ」
雛子が言った。それはどこか物悲しい声で、千代子はそんな雛子の顔を窺うこともできずにいた。
「千代子さんはね。覚えていないかもしれないけれど、お話をしたときにね。とても静かに話を聞いてくれたのよ」
図書館でのことだ。覚えていないはずがなく、あれはまだ同じクラスになる前のでき事だった。
学校で調べ物があって、千代子は一人で放課後に、参考になる本を探していた。社会のグループ発表の調べものだったと記憶している。棚を順に見て回っていると、部屋の片隅に一人の女子生徒が潜んでいるのを見つけた。図書室だというのに本棚には目もくれず、窓際のカーテンに隠れるようにして息を顰めていた。
その頃から千代子は同じ学年の有名な美人だと雛子のことを認識していた。いつでも誰かと一緒に談笑しながら廊下を歩いている姿をよく目撃していた。
だから、こんな学校の隅っこに隠れるようにしている姿にそれはそれは驚いたものであった。
そうして目が合った。千代子は、さてどうしたものかと思うよりも先に、軽くお辞儀をして踵を返すことにした。校内の有名人だからといってきゃいきゃいと迷惑を顧みずにはしゃぐような人間ではなかったし、最も高嶺にある花を相手にする度量を持ち合わせてはいなかったのだ。
そういえばその時も千代子を引き留めたのは高嶺の花のほうからであった。
「ちょっとこちらへ来てはくれないかしら」
周囲には誰もいない。その言葉が自分にかけられたものだとすぐにわかり、振り返る。随分とかしこまった話し方をするのだな、と思う。(それは今もなお継続しているが)
「――御用でしょうか」
「あら、丁寧にお話するのね」
少し驚いたように雛子は笑う。お互いに一年生であることはセーラー服につけられたピンバッヂからも見てとれる。同じ歳だとわかっていながら、敬語を使う千代子の姿がおかしく映ったのだろう。
「私は皆にこう話すので……慣れれば少しは砕けた物言いもできましょうが」
「いいわ。そのままでお話しましょう。そのほうが……どうしてかしら。気が楽だと思うもの」
雛子はそう、小鳥が囀るような美しい声で言った。ほぅ、と千代子はほれぼれと感心し、頷く。
他人行儀な二人の話し言葉は、その図書館の片隅にだけ響いた。
それはとても他愛のない話であった。天気の話、勉強の話、学校でのでき事。当たり障りのないそんな雛子の話を、千代子は静かに聞いていた。
それが唯一の二人きりでの会話であった。
「忘れていませんよ。――ちゃんと覚えています」
空に浮かぶ月と同じで、まるで薄雲がかかったような表情をしていた雛子が立ち止まり、顔を上げた。きらきらと周囲の光を集めたような微笑みであった。雛子が繋いだ手をぎゅっと強く握った。
「私は――」
雛子が口を開きかけ、少し唇を噛む。そうして辺りを少し見回すように視線を配った。そして囁くように二人だけに聞こえるくらいの声でそっと千代子に言った。
「――私は……あなたのその静けさが好き。目まぐるしく変化する周囲の視線の中で変わらず静かで居てくれた――そんなあなたが好き」
自身の胸の奥へと落とすようなその言葉はどこか芝居がかった台詞のようであった。千代子はもはやどのようにその言葉を受け取れば良いのかわからず、ぽけっ、とどこか拍子抜けな表情を浮かべていた。
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