花の蜜吸い

佐渡 寛臣

第1話


花の蜜吸い



 夏祭りを二人で抜け出した。涼やかな風が手を繋ぐ二人の間を通り抜ける。雛子の少し汗ばんだ手が、千代子の手を引く。

 枝につるされたぼんぼりの淡い光に照らされて、後ろに結わえた黒髪の隙間から細く白いうなじが見える。白に金魚の模様の入った浴衣は涼やかで、それをしゃんと着こなす雛子を美しく思う。


 比べて、菫の模様の入った薄水色の浴衣も千代子が着ればどこか子供っぽく思えてしまう。同じ歳、同じ街に暮らしているというのに。

 空の細く曲がった月は薄ら雲がかかって霞んで見えた。見上げた夜空には、雲の隙間からきらきらと瞬く星々が散りばめられている。


 今日というこの日に限って、それが一面ではないことが千代子には寂しく思えた。

 雛子のことは、中学生に上がった頃から知っていた。廊下をすれ違ったときに思わず振り返ったのを今でも覚えている。



 ――埃一つついていないセーラー服、綺麗にアイロンがけされたプリーツスカートが歩みに合わせて小さく揺れる。ぴんと伸ばした背筋にしっかりと前を見据えるその目は凛としていた。ただ歩くその所作一つとっても、雛子という少女は完璧な人間だと思った。


「――千代子さん。これ食べる?」


 雛子がそう言ってかじりかけのりんご飴をそっと差し出す。いいんですか、と千代子が戸惑い、雛子は笑う。


「聞き返さないで。恥ずかしいわ」


 微笑む雛子が立ち止まり、道の隅っこに千代子を引っ張る。流し目でこちらの目を見つめながら、りんご飴をくしゃりと齧る。そしてそのまま雛子の方へと差し出した。

 手を伸ばし、りんご飴を受け取る。雛子は手を離さずに、そのまま千代子の口元に近づける。

 雛子の柔らかな手の甲に、そっと手を添えてりんご飴を齧る。二つの齧り痕を見つめながら、しゃりしゃりと音を立てて飲み込む。飴の甘みが口いっぱいに広がった。


 悪戯っぽく笑う雛子が再びくしゃりとりんご飴を齧る。見せつけるように千代子の齧り痕に唇を一度重ねて、ゆっくりと咀嚼した。


「――おいしいわね。千代子さん」


 そこには学校で見る姿とはまるで違う彼女がいた。学校外だからというわけではない。ほんの数分前、他の友人たちと一緒にいた時から比べてみても、雛子の雰囲気がそうとはわからないくらいにくだけた印象に千代子には思えた。



 夏の最後の花火大会の日であった。仲良くしてもらっている女子グループの提案から皆で浴衣で集まろうということになった。そこにはもちろん拒否権などというものは存在しなかったし、断る理由も特になかった。なし崩し的に千代子は母に用意してもらった浴衣に初めて袖を通してお祭りへとやってきた。


 そこへ合流したのが雛子を中心とするグループであった。千代子のグループの中に一人、紗枝という活発な女子がいた。運動部に所属し、黒く日焼けした肌が印象的なスポーツ少女である。そんな彼女は千代子と違い、クラスの中では目上の(と表現して差し支えないだろう)グループとも活発に関わりを持っていた。

 その積極性は雛子とは対極ではあったもののクラスのもう一つの中心と言える存在感を持っていた。


 いつの間にか、千代子の知らないところで雛子とのグループ合流は決まっていたらしく、祭りに到着した千代子は大変驚いたのであった。

 男子たちの高嶺の花であると同様に千代子にとっても雛子という女子は同じような存在だった。

 だからこそ、ほんのつい数分前のでき事は千代子にとって大きな事件であった。


「――二人で抜け出さない?」


 皆が縁日の屋台に目を奪われている隙を見計らっていたのだろうか、雛子がそっと袖を引いて言った。自分より少し背の高い雛子を軽く見上げて、目をぱちくりとさせる。その表情が楽しいのであろう雛子はくすくすと笑う。そしてそのしっとりとした柔らかな手で、千代子の手を握った。


「ね、いいでしょう?」


 返事も聞かずに先に歩く雛子に手を引かれ、二人は人混みに身を隠すようにしてグループから離れた。

 ろくすっぽ話したこともない千代子は雛子に連れられるまま縁日の屋台を回った。そうして先ほどのやり取りに至るのである。

 なぜ、自分なのだろうか。と千代子は不思議に思う。グループの中でもとりわけ地味な自分がクラスの華とも言える雛子に誘われて、二人でいるのだろうか。


「――千代子さん。黙ったままね。退屈させているかしら」


 再び歩き始めた雛子が憂いを帯びた瞳をこちらへ向けた。


「そんなこと」


 こちらこそ失望させているでしょうに、と口には出さずに申し訳なく思う。生来からの緊張しいで目立つことを嫌がる千代子にとっては彼女は世界の中心にいるような存在だった。まさしく住む世界さえ違っているように思っていたのである。

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