サヨナラの前にサヨナラ

二度東端

サヨナラの前にサヨナラ

 「いやー、かなわんわ。まさかあそこから負けるか? なぁ」


 伏見が悪態をつきながら喫煙室に入ってきた。あいさつもなしに、主語もない代名詞連発の悪態であったが、おおよそ検討はつく。また阪神が負けたのだろう。僕は野球には詳しくないが、彼の会話パターンとして、朝は大体、スポーツの話題だった。

 

 そして今は、まさしく朝。

 毎朝、早めに出勤している連中の中で、喫煙者は僕と彼だけである。となると――朝、この喫煙室で行われる会話は、必然的に僕と彼によるスポーツの話になるといえよう。


 「しかし、あそこからサヨナラまでいく? 野球は9回裏ツーアウトから――とはよく言いよるけど、普通は抑えるやろ。4点差やで4点差。なぁ」


 伏見は繰り返すように同意を求めてきたので、とりあえず頷いておく。

 これもまた繰り返しになるが、僕は野球には詳しくない。というよりも、スポーツ全般に明るくなかった。それでも構わず毎朝スポーツの話を振ってくるので、毎朝このように会話というよりは、彼の独壇場が続いているのであった。


 僕は、そういうところだろう――と思った。


 というのは、彼はそろそろ我が社で喫緊の噂に上がっていた、リストラの対象であった。開発部からも何人か切られるかもしれない――という。


 「皆仕事が出来るのはわかってるけど、伏見はやりにくいから仕方がないよなぁ……」


 過去形にしたのは、それは噂ではなく事実らしかった。開発室長が先日の飲み会、何次回なのかは記憶にはっきりとないカラオケボックスのトイレで、ふと僕に漏らしたのだ。

 

 伏見は自分のことだけはパッと終わらせてくだを巻いているようなタイプで、今ひとつ協調性というものに欠けてた。偏見も甚だしいが、関西人らしい一方的な気質も、開発室の中で浮いていたと言えばそうなる。事実、彼とコミュニケーションを取るのは僕ぐらいであった。というのも、僕ぐらいしかまともに取り合っていなかった。

 僕は人と話すのが億劫なので、彼の一方的なマシンガントークも、他の人の話同様に、軽く聞き流しているだけに過ぎなかったのだけれど。他の人にとっては苦痛だったのかもしれない。


 「それはそうと、今日朝イチから室長室に呼ばれてんけど、俺、なんかやったか?」


 伏見から思わぬタイムリーな話が飛び出したので口を開きかけたが、まさか僕の口から言うわけにはいかなかった。贔屓の阪神がサヨナラ負けの翌日に、彼もまたサヨナラを食らうという事実は、人間味がないね――とよく言われる流石の僕でも、それなりの不幸に思えたからだ。

 

 そして彼の今の口ぶりを見るに、リストラの噂すらも知らないのだろう。既に事実に近い確信にはなっているが、彼はその前段階にすらたどり着いていなさそうだった。


 よって――僕はさぁ、と左手を上げた。同時に右手で灰を落とす奇妙なポーズをキメながら。


 「なぁ。今回のプロジェクトだって俺のフェーズは滞りなく終わったはずやし……あ、もしや異動の話かね? 関西の方で人足らん、みたいなパターンやったらまだええんやけど」


 人が足らんどころか人が要らないという、我が社の経営状況を知らないようだった。

 まぁ、毎朝の話しぶりを見る限り、会社に興味があるようなタイプの人間ではないのは知っていたが。


 エンジニアにこういったタイプは少なくない。話の流れで野球で例えるなら、自分の仕事だけはキッチリやるようなクローザーで、年俸調停なんかはしない。野球もとい、エンジニアリング一筋というやつである。


 少なくとも、プレイヤーであるのは間違いない。断じて、ペナントレースを中長期的な視野で考えなければならないコーチ陣や、フロントではないだろう。

 


 僕がそう思案を巡らせて静寂を保っていると、伏見が一球を投じた。

 


「まぁ、俺もちょうど話があったからちょうどええわ、この会社辞めようと思っとったし」


 

 予想もしない、斜め上のビーンボールが飛んできた。


 サヨナラを食らうはずの男が、先制でサヨナラを告げるというのだ。野球のルールでは起こりえない先制打だった。

 お前ぐらいしか話す人居れへんから言うけど――ということで、伏見は話し始めた。



 「関西に帰ろ思っとってな。もう異動してきて3年になるけどここは慣れん。野球はハムしかやってへんし、うどんは塩辛いし、何より寒い。寒すぎる。冬が来る前におサラバや」


 彼の毎朝のマシンガントークの内容そのままに、比較的空虚に思える退職理由だったが、彼らしいと言えばそうだった。僕はどう言葉を返したらいいのか、そもそも返すべきなのを迷った上、とりあえず微笑んで頷いてみた。



 「ホンマにお前は喋らんやっちゃな……まぁ、ベラベラしゃべる奴よりは信用できる」



 お前が言うな――と言いかけた矢先、伏見は言葉を継いだ。



 

 「実はな、宝くじ当たってん。それが本当の辞める理由や」



 

 想像以上のサヨナラホームランを彼は打っていた。そのホームランは、観客のいないスタンドに飛び込んでいく。タバコの灰が、ぽとりと床に落ちた。

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