第17話 お兄様とは結婚できない

「お兄様、見てください!」


 ある日、家に帰ると、初等科の制服を身にまとった菊華が俺のことを待ち受けていた。


「どうですか? 似合ってますか?」

「うん。すっごく可愛いよ」


 そう言って菊華の頭を撫でると「えへへ……」と恥じらうようにはにかんだ。

 子供の成長というのは早いもので、小さいと思っていた菊華も来春には初等部だ。

 

「おお菊華。よく似合っているじゃないか」

「お父様!」

 

 白百合と連れ立って現れた父に向かって、菊華がとててと駆け寄っていく。


「ほんとうですか? かわいい? 似合ってます?」

「ああ。可愛いし、よく似合っているよ」


 父にも誉められたことで、菊華が嬉しそうににこにこと笑う。

 比較をするわけではないが、姉妹でも性格というのは大きく違うもので、白百合を控えめで大人しい性格と言うなら、さしずめ菊華は太陽みたいに明るかった。


 それ故に、どうしても場の空気は菊華の雰囲気に染まることが多く、それが悪いことだとは思わなかったが、今後はもっと注意して二人を見ていった方がいいなと思うことも増えていた。


 馬鹿な子ほど可愛いとは言うが、確かに菊華は可愛いのだ。

 愛嬌があるし、人に甘えることにも慣れてきている。


 それが増長して、いつか白百合を軽んじることがないようにちゃんと気をつけなければと思うし、白百合は白百合で努力家なので、そこにちゃんと気付いて褒めて伸ばしていかなければ。


 ――と、そんなことを思っていたら。


「じゃあ菊華、大きくなったらお兄様と結婚できますか?」


 と。

 突然菊華がぶっ込んできたので。


「け……、結婚……?」


 その言葉に、動揺したように声を漏らしたのは、俺ではなく父で。


「はい! 聞いたんです。大人になったらみんな、いつか好きな人と結婚するんだって。だったら菊華は、お兄様と結婚したいです」

「えっ……と……」


 こ……、これかあ……!

 これがあの……、「大きくなったら私、パパと結婚する!」ってやつか!

 俺、パパじゃないけど!

 兄だけど!


「だ、だったら私も……! 結婚するならお兄様みたいなひとがいいけど……」

「えっ」


 とまたしても声を上げたのは俺ではなく父で。


「でもね……、菊華ちゃんあのね。結婚っていうのは、兄妹ではできなくて」

「えっ……」


 そう言って、白百合が説明した言葉に、菊華が大きく目を見開く。


「そうだぞ、菊華。菊華がお兄様大好きなのはわかるが、お前はいずれ、この家のためにも家柄の良い男の人のところに嫁がなければいけないんだ。たとえば、父様みたいな……」

「でも、雛子ひなこ様のところのお父様とお母様は、好き同士だから結婚したって」

「それは、雛子ひなこ様のお父様とお母様は兄妹じゃないからだ。ほら、父様と母様だって兄妹じゃないだろう」

「…………っ!」


 みんなの話を聞いているうちに、みるみる大粒の涙を目に浮かべた菊華は、その涙がこぼれ落ちると同時にその場を駆け出した。


「……っ、菊華!」

「菊華ちゃん!」


 俺と白百合が、引き留めるように菊華の名を呼ぶが、それに足を止めることなく菊華は泣きながら走り去っていった。


「すみません、白百合をお願いします!」

「あ、ああ……」


 父にそう言うと、俺は急いで菊華の後を追いかける。


 背後で「……みんな、父様と結婚したいとは言ってくれないのか……」と、父がいじけている声が聞こえた。



 ◇



 ◇



「……菊華。入るよ」


 ふすまの向こうに向かって声をかけると、ぐずぐずと菊華の泣いている声が聞こえる。

 そっと開くと、布団をかぶって丸まっている菊華の姿が見えた。


「菊華」


 俺は、部屋の片隅で丸まっている布団の横まで歩いて行き、その傍らにしゃがむと、中にいる菊華に向かってなるべく優しく聞こえるよう話しかけた。


「せっかく可愛い格好しているのに、泣いてちゃもったいないよ」

「…………ぁ」

「ん?」


 べそべそと、布団の奥から何かくぐもった声が聞こえるが、泣きじゃくっているのと分厚い布団が邪魔でよく聞き取れない。


「に゛いざまのぉ……、お嫁さんになりだがっだぁ……」


 …………。


 そう言って、震える布団を見下ろしながら。

 俺は、何と言っていいものか。しばらく黙って見つめていた。


 ……子供ってほんと、真っ直ぐだよな。


 精神年齢的にはとっくに成人を超えてしまった身としては、何ともいえない気持ちになる。

 妹から「お兄様と結婚する!」と言われることに、嬉しくないと言ったら嘘になる。

 できることなら、妹たちの将来からうれいを取り除いてやりたいと言う気持ちでずっと兄をやってきたが、こうやって泣かれてしまうのは。


 ……嬉しいし、愛しいし、切ないよ。


「菊華」

「……」


 ふとんのなかで、いよいよ泣きすぎてしゃくり上げてきてしまった菊華に向かって声を掛ける。


「あのね。確かに、兄様と菊華は結婚はできない。でも、兄様はずっと、菊華の兄様だから」

「ぅい……っ」

「菊華にはまだ難しいかもしれないけど、結婚してもお別れすることもあるし、みんながみんな、好きな人と結婚できるわけじゃないんだ」

「……お兄様は菊華のこと、好きじゃないの……?」

「もちろん好きだよ。でも、結婚にはお別れすることもあるけど、妹とお別れすることはないから」


 だから、僕は菊華とずっと一緒だからね。というと。


 少しは納得してくれたのか、泣き腫らした目をした菊華が、もぞりと布団の奥から顔を出した。


「ずっといっしょ……?」

「そう、ずっといっしょ」

「菊華は、兄様の特別?」

「うん。特別だよ」


 俺がそう言うと、菊華はさきほどよりもだいぶ落ち着いた表情を見せて、俺の手を掴んで、膝に頬を寄せてきた。


 それから、菊華が落ち着くまで一緒にいてあげたのだが、しばらくするとうとうとと船を漕ぎ出し、最終的に寝息を立て始めてしまったので。


 そっと菊華をまた布団に寝かせてから、音を立てないように静かに部屋を出たのだった。

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