第17話 マドレーヌの香り
夏休みから会えていなかった彼女は、そもそも存在していなかった。そんな疑念を抱きながら月島は自分の教室の席に座り、俯く。チャイムが鳴り、放課後になっても月島はそんな調子であった。
そもそも、彼女は空想上の存在で、今までの彼女の姿は自分の幻想だったのか。彼女の美しい容姿と時々魅せた儚い表情が月島にそんな空想みたいおかしな話を現実的に信じさせる。
月島が難しい表情をしていると、佐藤が月島に心配そうに声を掛ける。
「おい、月島。最近、特に今日はすごい調子悪そうだけど大丈夫か」
「あぁ、大丈夫」
月島は、そっけなく返事をしたが、次の瞬間、前に佐藤と話したことを思い出す。
「そういえば、佐藤」
佐藤は、月島が急に声色を変えて迫って来たことに驚き、両手で月島を抑える。
「おお、どうした急に」
「ごめん。いや、そうじゃなくて、前に日向さんについて知ってるって言ってたよね」
「ああ、確かに知ってるけど、前に言ったようにあったことはないって。先輩たちが、かわいいって言ってただけ」
「知ってはいるんだよね」
「あぁ、名前くらいはな」
「そっか・・・。いや、いいんだ。ありがとう」
「おお、そうか」
月島は、カバンに教科書をつめ、椅子にかけたブレザーをもって教室をでた。
やはり、佐藤は日向をみたことはなかった。それでも、佐藤は、日向の名前は知っていていた。つまり、この世界のどこかには存在している。考え込みながら、歩いていると、月島はバッタリ真梨花に遭遇する。
「あぁ、ごめん。大丈夫?」
「うん。大丈夫。それより、光こそ大丈夫」
「え?」
「今日なんか落ち込んでるように見えたから」
「ああ。大丈夫。じゃあ」
月島がそう残すと、真梨花は何かを言おうとした口元を開けたまま月島の背中を見つめた。
月島は二、三歩歩いた後、月島は何かを思い出したように振り返り、真梨花に尋ねる。
「あのさ」
「えっ、何?」
真梨花は急なことだったのか、驚いた様子を見せた。
「一組の日向さんって知ってる?」
「日向さん?」
「そう、一組の日向さん」
「う~ん。たぶん知らないと思うけど」
月島は不思議そうに首をかしげる。
「そっか。ならいいんだ。ありがとう」
「その子がどうかしたの?」
月島は少しの間の後に、何かを隠すように素早く答える。
「いや、ちょっと聞いて見ただけ。じゃあ」
月島はそう告げると早々と廊下へ駆けだしていく。
真梨花はそんな月島の様子を見て、何かありそうであることは察していた。しかし、長年の月島との付き合いから、ここは特に言及しない方が良いと考えた。その代わりに真梨花は、月島の袖を引っ張った。
「ねえ、光。今日一緒に帰らない?」
真梨花は少し微笑んで言った。
「・・・。ごめん、今日が一人で帰るよ」
月島は真梨花にそう告げると、真梨花の手から袖がすり抜けていった。
◇◇◇
帰り道。ここ最近、彼女と会えていなかったのはまぐれで、今日起きた出来事も全て夢か何かで、この通学路で彼女で会えるのではないか。自転車を押して歩く月島の淡い期待は高校から駅までのほんの15分弱の道のりで消え去った。歩いても、歩いても彼女の影一つ見えてこなかった。
佐藤の話から彼女が存在していることに間違いはなさそうだが、どのクラスの出席名簿にも彼女の名前がなかったことを考えるとにわかにその存在が信じられなかった。
名前や噂だけ一人歩きしていて、本当は存在しない人を自分だけが見られる。そんな設定、いくらでも小説や映画にある。月島は考えすぎて疲れているのかそんな空想を思い描いてしまったりしていた。あほらしい考えではあるが、もはや真面目にそう考えるほど月島は困惑していた。
今にも雨が降り出しそうなくらい曇り空が広がる頃、結局月島は何も手がかりが得られないまま自宅に着いた。
月島は家の中でも、日向について考え続けたが結局それらしい推論は何も浮かばなかった。
夕食もまともに喉を通らず、今すぐにでも眠りたいほど疲労がたまっているはずなのに、何度、目を閉じても眠りにはつけなかった。何だが、もやもやするような胸の痛みを感じていた。
最近やけに感じるこの胸の痛みは、幸い、前のような倒れてしまいそうな痛みではなかったが、じわじわと月島の胸を締めていた。
結局、一睡もすることもなく、夜明けを知らせる小鳥の鳴き声を月島は耳にした。カーテンを開けると、じわっとした雨の匂いが部屋中に広がった。外を眺めると、雨は止んでいたが、さっきまで降っていたと思われる雨がところどころ水溜りになっていた。
そういえば昨日は夜から早朝にかけて雨が降る予報であった。月島は、そんなニュースを見た気がするが、そんなことは忘れており、雨の降った事にすら気づいていなかった。
少しの空腹と気だるさを感じながら、月島は昨日帰ったまま放っておいた制服をハンガーにかけなおす。その後、ポケットから鍵や財布を取りだそうとすると、なんだが見知らぬものが入ってる感じがした。カサカサと、とても財布からでるような音ではない。月島が取り出して出てきたのか個別に包装されたマドレーヌだった。
月島には、犯人が誰だかお見通しであったが、この空腹を満たすのに丁度いい量の糖分をありがたくいただくことにした。
月島を包装用のビニールを無造作にやぶり、小さなマドレーヌを幾数年ぶりに口に運んだ。そのとき、そのマドレーヌの香りが月島の鼻に、口の中に、体中に通り向けた感覚がした。
―1番最後にマドレーヌを食べた日。確かその日も雨も匂いが混ざっていたような・・・。
月島にとって、その日は苦しくも全てが変わったあの日だった。
あの日、あの知らせを聞く前までは僕は普通の中学生で、その普通の生活ただただ楽しむだけだった。それこそ、あの日の朝、その知らせを聞くその直前に真梨花とマドレーヌを食べて話していた。でも、あの瞬間から何もかもが変わった。自分に対する周りの視線が変わった。可哀想だとかそんな言葉が毎日聞こえて、自分は普通ではないと、嫌でも思わなければいけなかった。
ほとぼりが冷めて、少し経っても、気づいた時には周りのノリというものについていけなくなった。みんなが何かに盛り上がっていても、自分だけはその空気に酔うことができなかった。
そんなこともあって、高校に入る前から、青春なんてものは求めてなくて、むしろ、ただ同じような毎日を何事もなく過ごすことを願っていた。
でも、高校2年になった今年、そんな願いは思わぬ方向に変わっていった。ひとりぼっちの根暗になんの戸惑いもなく話しかけてくるやつと出会ったり、もう会うと思わなかった幼馴染と再会したり、意外なことに高校生活はそれなりに充実したものになっていた。
でもこの変化の一番の原因は、きっと彼女と出会ったことだと思う。
君と初めて会ったのは朝の屋上だった。
「私は一組の日向です」
君の笑顔はまぶしくて、何だが別世界の人のように思えた。それからというと、彼女の笑顔になぜだか引き付けられて、彼女に表情に魅了されて・・・。
それでも僕が君を気になったのは、その笑顔の裏に何か同じものを感じたからかもしれない。
記憶を辿った月島は、何かが頭の中で引っ掛かり、眉間にしわを寄せる。
「ああ、確かに知ってるけど、前に言ったようにあったことはないって。先輩たちが、かわいいって言ってただけ」
佐藤が言っていた言葉をふと思い出した。
何で、僕だけが彼女を見たことがあるんだ。いや、むしろ何で他の皆は彼女を見たことがないんだ。同級生、いや同じ学校にいたら高い確率ですれ違ったことはあるだろうし、彼女を見て忘れる人なんているはずがない。そもそも、彼女くらい可愛かったら常に人に囲まれてもおかしくないんじゃないか。
何か繋がりそうな気が・・・。いや、もしかしたら・・・。
月島が思考に意識を奪われているうちに、夜が明け、日が昇っていた。
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