閑話3
月島は瞼に光を感じ、瞳を開けた。すると、じゅーと油がフライパンの上で踊る音が耳に入り、同時に香ばしい香りが漂った。
月島が体を起こすと、後ろから聞き心地の良い高い声が月島の耳に入って来た。
「おはよう、月島くん」
月島が振り返るとエプロン姿の日向がダイニングで調理をしていた。
「うん。おはよう。はぁ~」
月島は、一つ大きなあくびをして、目をこすった。
「顔、洗ってきたら」
「うん。そうさせてもらうよ」
日向が促すと月島はソファから立ち上がり、目をこすりながら洗面所を目指して歩いていく。
「今日は随分と気持ちのいい朝だなぁ」
月島がそうひとり言をこぼすと彼女はそれを拾う。
「確かにぐっすり眠ってたよ」
「ぐっすり?」
月島は、しっかりと目をこすって、目の前の時計の時刻を確認する。
「えっ、七時三十分?いや、六時三十分?」
「月島くん、飲み物はコーヒーでいい?」
日向は困惑する月島を他所に、朝食の飲み物を聞いている。
「あの、この時計の針って長い方が時間だったりする?」
月島は、微かな可能性にかけ、願うように日向に尋ねた。対する日向はどうしてそんなに月島が焦っているのかと言わんばかりに、不思議そうな顔で当たり前の答えを告げた。
「ううん。ふつうに分の方だけど。それよりコーヒーでいいかな」
「えっ、えええー」
月島はここ最近で一番大きな声を発した。
「えっ、どうしたの朝からそんなに大きい声だして」
「いや、どうしたのでじゃないでしょ。ふつうに学校間に合わないでしょ。遅刻でしょ」
月島の指摘に対して、日向はなるほとという感じで納得した表情をみせて説明した。
「いやー朝起きたら、ぎりぎり間に合わなそうな時間だったから、どうせ遅れるならゆっくり朝の時間を満喫しようと思って」
てへっと手を頭において笑顔を見せる日向を見て、月島は極度の虚無感を覚え、元居たソファに戻った。
「三年間無遅刻無欠席という目標が・・・」
月島は学校への連絡と着替えを済ませ、みなとみらいの朝の景色を眺めていた。今日の天気は月島の現在の内面と対比するように、晴れやかだった。
「いやー何かごめんね」
「別にいいよ。君のせいじゃないし」
「まぁ、夜も遅かったからね」
彼女はそう言いながら、ダイニングに戻りコーヒーを二人分入れてくれた。月島は軽く会釈をし、コーヒーを受け取った。
「でも、まさか月島くんが学校にそこまでいきたがる超優等生くんだと思わなかったからさ」
「別に僕だって、本心で学校で行きたいとは思っていないよ。ただの将来へのリスクヘッジ」
「リスク?ヘッジ?」
「うん。簡単に言えば将来のあらゆる選択肢を取れるようにして、リスクを回避するってこと」
「へー、月島くんってたまに小難しいこというよね」
「そうかな・・・。まぁ、とにかく選択肢はあるに越したことはないっていること」
「ふーん、そっか、そっか」
彼女は、あまり分かっていない様子でまた、ダイニングに向かってしまった。
「そろそろ焼けたかなー」
彼女がそう言ってすぐ、チン!という音が鳴り響いた。音がなってすぐに彼女はトーストを取り出し、あらかじめ用意していたお皿の上に置いていく。
「まぁ、過ぎたことは仕方がないし、朝食でも食べて切り替えていこうよ。」
彼女はそう言うと、お皿をテーブルの上に並べていく。
「おー」
月島はお皿の上に乗るオムレツとトーストそして彩られた野菜を見て昨夜と同様に思わず声をだしてしまった。日向はその様子に既視感を覚えたのか微笑みをこぼし、先ほどの提案に念押しをする。
「ね?」
「う、うん」
月島は、食事で納得させられるのは餌付けされているみたいで何だか癪だが、美味しそうな朝食に免じて納得することにした。
「いただきます」
「いただきます」
「おーすごいとろとろ」
月島が、オムレツを切ると中からとろとろの半熟の玉子が飛び出してきた。まるでホテルの朝食みたいだ。
「お味はどうですか?」
日向がそう尋ねるので、そのまま口に運ぶ。
「んー美味しいよ」
「良かった」
日向はそう笑顔で答えると、自らもオムレツを口に運び「ん~」と頬に手をあげる。
「日向さんはきっと、いいお嫁さんになるね」
月島はお礼を込めてお世辞交じりに賞賛を伝えた。
「本当・・・?」
日向は、真顔でじっと月島を見つめた。
「・・・うん」
月島は、じっと自分に見つめる日向に何だか恐怖を感じながらも首を縦に振る。
「本当・・・?」
日向は、まだじっと月島を見つめている。
「・・・うん」
「それって、私と結婚してくれるってこと?」
日向は、笑みと羨望を混ぜて少し不気味な顔で月島に迫った。
「いや、そこまでは・・・言ってないけど」
「えええー期待させないでよー」
「な、なんかごめん」
「うそうそ、冗談だよ」
そうやって、ニヤリと彼女は不敵な笑みを浮かべた。なんだかため息が出てしまう。今日も彼女は健在だ。
◇◇◇
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
「月島くん、ちょっと待ってて、お皿洗ったりしなきゃいけないから」
彼女はそういうと少し急いで、お皿をまとめていく。月島はそんな彼女の手の甲に自らの手のひらを重ねる。
「お皿は僕が洗っておくから、日向さんは自分の支度をしてきて」
「えっ、でも」
日向は少し戸惑った様子で月島を見つめる。
「女の子はいろいろ準備があるんでしょ」
「う、うん。ありがとう」
日向は少し照れ臭そうにお礼を言って、バスルームに向かった。
月島たちはお互いに支度を終え、扉を開けた。とはいえ、彼女はもともと顔立ちはいいので、あまり身支度には時間がかからず、八時三十分前には地下鉄のホームにいた。
「今からなら、二時間目の十時には間に合いそうだよ」
日向が月島にそう伝える。
「良かった。でも、遅刻して学校いくとか初めてだからなんか緊張する」
月島がそわそわしているのに対し、日向は平然と答える。
「そうかな?別に普通じゃない?」
「でも、何か変な感じがする」
「別にいけないことしているわけじゃないんだし堂々としていればいいんだよ」
「遅刻することが『いけないこと』ではないというわけでないけどね」
そんな月島の指摘など飛ばして日向を持論を語る。
「せっかくの遅刻なんだし、何かの記念だと思って楽しめばいいんじゃないかな」
「見かけに寄らず、ず、骨があるんだね」
月島はあえて、図太いとは言わず言い換えて、返答した。
「もし、あれだったら新幹線でも乗って遠足気分を味わってからいく?」
「いいよ。遠回りになるし、お金もかかるから遠慮しておくよ」
お金持ちは何でもありだなと思いながらも、どこか頼もしい彼女のおかげ変な緊張した気持ちは先程よりかはなくなっていた。
月島たちは、ガラガラとは言わないまでも比較的空いていた地下鉄に一時間ほど揺られた。最初はお互いに他愛のない話をしていたが、彼女は頭を月島に預け、随分早いうたた寝をしていた。
彼女は昨日は終始明るく振舞っていたが、彼女なりの気遣いもあって疲れたのだろうと思い、月島は三分ほど彼女の枕になるように振舞った。
月島たちは、途中乗り換えを挟んで最寄り駅にたどり着いた。
「なんか急に現実に戻って来た気分」
月島は肩をぶらんとして、力を抜いた。
「帰るまでが遠足です。気を抜かないように」
彼女はどや顔でそう話すが、実際はまだ、学校にも着いていないのである。
「時間もあるし、こっちから行こう」
日向そういうと、月島の回答を待たず先に行くので、月島は彼女に遅れまいと少し小走りで追いつき、彼女の歩幅に合わせていく。
いつもと同じに道なのに、時間が違うのか、それとも隣を歩く彼女の存在なのかどこか違い気持ちで月島は通学路を歩いた。
途中、日向は町中を散歩する保育園児や体育のために校庭に出る小学校低学年の子に手を振られ、それに応じるように振り返しながら歩いた。月島はそれを横目で見て、改めて実感した。昨日今日と彼女の過ごしたが、やはり彼女は別世界の人間なのだと。
よく小さい子には大人では感じられない感覚を持っていると言われ、人の表情やオーラを感覚的に感じて、その人がどんな人が判別するらしいのだ。
きっと、彼女には、人を明るくするオーラがあるに違いない。対する自分にはきっとそんなものはない。月島はそんなこと頭でめぐらせた。
月島がそんなことに思考を取られていると、日向が急に月島に声を掛ける。
「やばい!のんびり歩いてたら、こんな時間になっちゃった」
月島は、日向にそう言われ、時間を確認すると時刻は九時五十七分になっていた。
「よし、走るよ」
すると日向は月島の手を取り、足の回転を速める。
残り三百メートルもない道のりではあったが、彼女と走る短い時間はなんだかどきどきして、簡易な言葉で言えば少しだけ、青春を感じた。
キーンコーンカーンコーン。二時間の始まりである十時を伝える金がなる。
「はぁはぁ、だめだったか。最近、運動してなかったから、息が・・・」
日向は、意外にも体力がないのか、肩を上下に揺らすように呼吸を整える。月島たちはお互いに少し汗を拭って、校門の前で肩を上下にさせる。
「仕方がないよ、行こう」
月島たちは、校門のくぐる。
「月島くん。私、先生のところ行ってからいくから、こっちからいくね」
「うん。分かった。昨日はありがとう」
「うん。またね」
月島と日向は分かれを告げ、お互いに目的地に向かった。目的地と言ってもただの教室なのだが。
◇◇◇
月島は、廊下を忍びのごとく移動し、扉を誰にもきづかれないように開けた。察しの通り、教科担任の姿はない。月島は安堵して、ゆっくりと教室の扉を開けた。
扉を開けた瞬間こそクラスの大方が月島の方を見たが、すぐに各々をおしゃべりタイムに戻った。
月島が自分の座席に着くと、早速前の席の佐藤が話しかけてくる。
「おお、月島、とうとうずる休みか」
月島の席に体を乗り出すような勢いで話しかけてくる佐藤に、月島は咄嗟に距離を空けた。
「来てそうそう、騒々しいな。あと、今実際来ているから、ずる休みではない」
「でも、今日二教科遅刻してるじゃん」
「まぁ、そうだけど、実質一限だけ」
「今日が数学で助かったな」
「本当に助かったよ。あの先生いつも遅刻してくるから」
「それより、何で遅刻してきたんだよ」
「担任が朝、何か言ってなかった?」
「言ってたけど、内申点ゴマすり男のお前が体調不良ごときで休まないだろう」
「何、そのいじめぎりぎりのあだ名」
「今、考えた。それで本当は何で遅刻したんだよ」
「まぁ色々あったんだよ」
「何か、怪しいな」
佐藤はじっと、月島を見つめる。
「別に怪しくないよ。そんな犯罪者を見るような目で見ないでよ」
そういう月島をものともせずに佐藤は、クンクンと鼻を利かせる。
「なんかお前、いつもよりいい匂いするぞ」
「何それ、まるでいつもは臭いみたいな言いぶり。それより・・・」
月島は話題を逸らそうと試みるが、佐藤は逃がさない。
「んっ?何だ。この匂い。もしかして、女だろ」
月島は、いつも通り鋭い佐藤に若干、気持ち悪さを覚え、改めて距離を話す。
「匂いとか分かるの・・・」
「なんだよ~、そんな引かなくてもいいだろー。だって、明らかになんか匂い違うし、やっぱり女だろ」
「ちがう、違うって、・・・」
「くそー、先越されたー」
「だから違うって」
そのときちょうど、数学の教科担任がいつものように悪びれもせずに、言葉だけの謝罪をして教室に入って来た。
「あぁ、すみません。遅れました。授業始めますよー。はい佐藤くん静かにー」
佐藤はいつもようにしゃべってなくてもしゃべっていても真っ先に注意を受け、体を教卓の方に戻した。
結局、あれから彼女に会う事なく帰路につき、非日常から始まった一日で当たり前の日常として幕を閉じた。
一応、母親には友達の家に泊まるとは連絡していたももの、案の定問い詰められてしまった。どこかで遊び明かしたとでも疑っているのだろう。あながち間違いではないが・・・。まぁ、そもそも友達すらいないとは思っていないだろうけど。
ともあれ、月島の長い遠足はようやく終わったのである。
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