第7話 廻る世界

 ある日、大学から自室に帰ると、美羽ちゃんが荷物をまとめていた。赤くて、身長の七割ほどの高さのあるトランクに、今まで彼女が持ち込んだ物を全て突っ込むと、

「よし、これで完璧ね。ユウキ、今までありがとう」

とニヤニヤ笑いながら言った。

「えっ、出て行くの……?」

「親と喧嘩して家出したのだけれど、そろそろ、ほとぼりも冷めたから。帰ることにするわ」

「やっぱり、家出少女だったんじゃん」

 美羽ちゃんが家にいて、面倒なこともあった。けれど、なんやかんやと助けられたし、何より、夜に一人じゃないから寂しくなかった。

半年、それはとても短くて、彼女のことなんてさっぱり分からなかった。いつもニヤニヤして、わけ知り顔で皮肉を言う、謎ばかり抱え込んだ少女。

彼女がここにいる間、着ていた服もプレイしていたゲームも、読んでいた本も、全てがトランク一つに入ってしまうことが、どうにも不思議で納得できなかった。彼女の存在は、私にとってもっと大きいものだったから。

「突然現れて、突然帰って行くんだね」

「人との関係なんて、そういうものでしょ? あんまり変なことに首を突っ込まないようにね。それじゃあ」

 彼女は最後に、またニヤリと笑って、トランクを引きずりながら部屋から出て行った。あまりにもあっさりとした別れだった。

 残された私は、おろおろと床に座り込んで、しばらくぼんやりとしていた。自分が生きてゆくための根本にある支えを、一つなくしてしまったような気がする。こんなにも美羽ちゃんに依存していたのだと初めて気付いて、ため息をついた。そして、枕を抱いて床に寝転んだ。これから、私はもう二度と彼女と会えないのだろうか。苗字も、どこに住んでいるのかも、メールアドレスさえも知らない。そんなふうな人付き合いばかり繰り返してきたくせに、今日はそれがとても寂しく空しいことのように思える。

 涙が出そうになって、慌てて目をつむった。本当に、山根先輩に「雨を降らせる魔法」をもらってから、魔法使いになる前よりも涙もろくなった。ずっと、自分の悲しみというものに鈍感だったから、胸が痛くなったり目頭が熱くなったりするような、感情に対する体の反応が大げさになってしまって、戸惑っている。こんな些細なことで泣いたりして、私はちゃんとこれからもやってゆけるのだろうか?

 左手を上げ、その甲にあるとても小さくなった山根先輩のピンク色の宝石をなぞって、また目をつむった。


 気が付くと、窓の外は真っ暗になっていた。三時間ほど眠ってしまったらしい。夢も見なかった。頭とふくらはぎが鈍く痛い。あまり良い眠りじゃなかったようだ。

 机の上に置いてあったスマートフォンを取る。メールが来ている。知らないアドレスからだ。迷惑メールだろうか? 不審に思いつつ開き、そして目を見張った。

「ユウキ様へ。今日の午後六時までに、『ひまわり公園』に来なさい。さもなければ、全国に流通しているチョコレートに、毒を混入します」

 時計を確認する。もう、午後七時を過ぎている。心臓が、痛いくらい激しく打って、頭がくらくらした。

 ぴこーん、とスマホの着信音が鳴る。同じメールアドレスからだ。アプリのショートカットを連打する。けれど、なかなかメールが開かなくて、思わず「くそっ」と叫んだ。

「ユウキ様へ。あなたが公園に来なかったので、毒を混入しました。このことは、警察に言ってはなりません。さもなければ、飛行機が落ちます」

 何だ、それ。私はスマートフォンを床に投げつけた。わけがわからない。最初は怒りと焦りでいっぱいいっぱいになっていたけれど、だんだんと怖くなってきた。ただのいたずらなのだろうか? 毒の混入って、どうやるんだろう? どうして、私にメールを送って来たのだろう? 非日常的な脅威が目の前に突然現れて、冷たい夜の空さえも、恐ろしいものに思えた。誰かが玄関の扉を開けて入って来るような気がして、そちらの方ばかり何度も確かめた。


 結局、その夜は眠れなかった。次の日の昼になって、魔法研究会のサークル室に行くと、鍵がかかっていた。

 美羽ちゃんだけじゃなくて、鈴木さんにも会えないなんて。

 扉の前で立ち尽くしていると、後ろから声をかけられた。

「結城さん……ニュース、見た?」

「三崎さん!」

 振り返ると、そこには三崎さんが青い顔で立っていた。彼女とは講義で一緒になることもあるけれど、あのお弁当事件以来、話すこともなかった。今、彼女が私を好きなのか嫌いなのか、どうでも良い人に戻ってしまったのかも分からない。ただ今の彼女は、藁にもすがるような不安に溺れているように見えた。

彼女は自分のスマートフォンの画面を、私に見せてくれる。ウェブ新聞のニュース記事が表示されていた。「○○社のチョコレートで食中毒。三百人が被害に。五十人は未だ入院中。原因は不明」と見出しに書かれている。背中が雪を被ったように冷たくなった。

「食中毒を起こしたチョコレートから、何も毒素は検出されなかったんだって。これ、きっと、私の魔法を誰かが悪用したんだと思う。どうしよう。私、どうすれば良いんだろう?」

 話している間、三崎さんの唇はずっと震えていた。今にも倒れてしまいそう。

「とりあえず、保健室に行こう。落ち着いた方が良いよ」

 私は彼女の手を引いて、保健室に向かった。


 保健室のベッドに横たわった三崎さんの枕元に座る。

「私、今までに十人くらいと魔法を交換しているの。全員、向こうから持ち掛けてきたんだけど、断れなくて。私の魔法は、食べさせる相手を深く好きだとか嫌いだとか思っていなければ発動しないから、個人的な使い道しかないと思っていたのに。無差別に食中毒を起こすなんて……」

 確かに、そうだ。もし彼女の魔法を使ったのだとしたら、その人は相当な人間嫌いだということになるのかもしれない。

「まだ、犯人が三崎さんの魔法を使ったのかは分からないよ」

「そうなんだけど。とても怖くて」

「魔法を交換した相手の連絡先とか、知ら……ないよね」

「うん。普通はしないよ」

 私は、昨日届いたメールを三崎さんに見せてみた。彼女は、無表情でそれを読み、そして

「これは、ただのいたずらだと思う」

 と言った。

「食中毒が起こったのは一週間前だから。ニュースになったのは、今日だけれど。結城さんが来ないことを確認してから毒を入れることはできないよ」

「あっ、本当だ」

 三崎さんの表情が、少しだけ緩んだ。

「着信拒否にするわ」

「それが、良いよ。結城さんのおかげで、ちょっと元気出た。五時間目の講義は出るね」

「五時間目、必修だったけ。そろそろ行かなくちゃ」

 たくさんの疑問を残したまま、私たちは取りあえず目の前のことを片付けるために保健室を出た。


 退屈な講義を、講義室の一番後ろの席で聞いていると、マナーモードにしているスマホが震えた。ホシノからのメールが届いたのだ。「今日の夜の飛行機で、そっちに帰るから、明日遊びに行くね」と、一行だけ書かれていた。飛行機……胸騒ぎがする。あんなメール、ただのいたずらだって分かっているし、そもそも私は警察に言っていない。飛行機が落ちるわけない。そう、あり得ない。

 自分で自分に言い聞かせて、けれど不安は抑えられなかった。


 ホシノが私の部屋に訪れたのは、メールを寄越した日の次の日ではなく、三日後だった。

「ねー! 聞いてよ! すっごく怖い目に遭ったの!」

 ホシノは、いつになく興奮しているようだった。

「ジュース、飲む?」

「うん。ありがとう」

 野菜ジュースを入れたグラスを手に、二人で机を囲む。ホシノはホッと息をつき、話し始めた。

「あのね、飛行機、落ちそうになったの」

「えっ?」

 耳を疑った。まさか、本当にそんなことが起こるとは思わなかった。血の気が引く。ホシノは、「大丈夫、こうして生きてるから」

と私を安心させるためなのか、微笑んだ。

「エンジンが故障したらしくて、海に真っ逆さまになりかけて……。私が魔法を使って浮かせたから、なんとか最寄りの飛行場に辿り着けたの」

「ホシノ、頑張ったんだね」

「そうだよ。めちゃくちゃ大変だった!」

「本当に、無事で良かった」

 私は身を乗り出して、ホシノを抱きしめた。ホシノも、私の肩をぽんぽん叩いてくれる。

「こういうとき、魔法使いになって良かったなあ、って思うよね」

「そうだね。まあ、でも、ホシノの魔法は使い勝手が良いから」

「確かにね、それはそう。人前では使えないけれどね。飛んだら目立っちゃうし」

 自分の発言が自分のツボに入ったのか、ホシノは声を出して笑い始める。私ももらい笑いしてしまい、二人で笑い合った。


 落ち着いてから、ホシノに例のメールを見せた。ホシノは、うーんとうなった

「迷惑メールかもしれないけれど……」

 彼女は、自分のスマートフォンでメールアプリを開き、宛名にその脅迫メールの送り主のアドレスを入れた。

「何するの?」

「メール、送ってみる」

「やめなよ、危ないよ」

私の制止も聞かず、彼女は送信ボタンを押す。

数秒後、私のスマートフォンが、ぴこーんと鳴った。ハッとして開くと、ホシノからのメールが来ていた。そのアドレスは、私のサブアカウントのものだったのだ。すっかり忘れていた。

「ユウキ、君、夢を見たんだよ、きっと。それを忘れないように、自分宛にメールを送ったんだと思う。送信予約の機能を使ったんじゃないかな?」

 言われて見れば……。ぼんやりと思い出す。変な夢を見て、目が醒めた時にメールを打って、それから二度寝したような記憶が、ぼんやりと意識に浮かび上がって来る。

「それじゃ、私、メールが来た日に公園に行かなくちゃならなかったのかな……」

「うーん、どうなんだろう」

 そのとき、また、ぴこーんという音が鳴った。私の、サブアカウントからのメール。

開いてみると、そこには、「これは、夢」と書かれてあった。


 ハッと目が醒めると、私は大学の講義室にいた。黒板の前では講師が何かを話している。私は、真ん中の席で居眠りをしていたらしい。

 スマートフォンを確認して、ため息をつく。やっぱり、そうだ。夢の中で、美羽ちゃんが、私の部屋を出て行った日の昼だ。

 私は夢を思い出しながらサブアカウントで三通のメールの送信予約をした。「これは、夢」というメールを予約するときは少し迷ったけれど、送っておくことにした。


 大きなトランクを持った美羽ちゃんを送り出した後、私は「ひまわり公園」に向かった。それは、街の郊外にある小さな公園で、平日の昼間はあまり人がいない。暗い林に囲まれ、静寂が満ちた公園をぐるりと見回す。雲梯のところに、誰かいる。あれは……鈴木さんだ!

 走りよると、彼は虚ろな目で振り返った。その手には、太い縄が……。まさか、

「まさか、自殺をしようとしていたんじゃないですよね?」

「だったら、どうするの?」

 鈴木さんは、表情の死んだ顔で問い返す。

「止めますよ! だって、あなたのこと、私、好きなんですもん。あなたがいなくちゃ、生きてゆけないぐらいに」

 鈴木さんは、視線を落とし、縄をじっと見つめた。そして、それを地面に投げ捨てた。

 その瞬間だった。「うぉおー」という怒鳴り声が響いたのは。植木の陰から男が現れて、鈴木さんに強くぶつかる。

 鈴木さんは、その場に倒れた。腹にはナイフが刺さっている。

「鈴木さん!」

 苦しそうに身をよじりながら、彼は何かを言おうと口を開いたり閉じたりしている。

 差した男は、血まみれになった姿のまま、公園の外に走って行ってしまった。

 どうすれば、良いのだろう。頭が真っ白で、ただ鈴木さんを見下ろして、私は口をパクパクさせた。息が苦しい。……そうだ、救急車! 呼ばなきゃ。でも、手が震えて、スマートフォンのロック画面が開けない。

「誰か、助けて!」

 喉が切れるほどに、私は叫んだ。


 公園に遊びに来た人が呼んでくれた救急車で、鈴木さんは病院に運ばれた。運よく、それほどひどい傷ではなかったらしいのだけれど、三日経っても意識が戻らなかった。

 飛行機事故を防いで私の部屋に遊びに来たホシノは、

「きっと、大丈夫だよ」

と言ってくれたけれど、私はどうしてもそう楽観的にはなれないのだった。もし鈴木さんが死んでしまったら、私、本当にもう、この世のどこにも行けなくなるかもしれない。笑うことも、泣くこともできなくなるかもしれない。お願い、誰か、鈴木さんを助けてください!


 ホシノと二人、近所の食堂でご飯を食べているとき、スマートフォンの着信音鳴った。届いたメールを開くと、そこには「これは、夢」と書かれていた。


 大学の講義室で目覚めた私は、今日が「これは、夢」というメールを受け取った日の五日前であることを確認すると、講義を抜け出して、魔法研究会のサークル室に向かった。扉に鍵はかかっておらず、中では鈴木さんがノートパソコンを弄っていた。

「鈴木さんが、刺される夢をみたんです」

「ああ、なるほどねぇ」

 鈴木さんは眠たげにうなずくと、私の顔を見上げた。

「ちょっと長い話になるけど、良い?」

「はい」

「まあ、座ってよ」

 私が椅子に座るのを見届けてから、彼は口を開いた。

「魔法使いは、基本的に、生まれ持ったたった一つの魔法しか使えない。そして、その魔法は、ほぼ他人と被ることがない。家族であっても、ね。いつだったか、どこかの誰かが、『右手の甲に結晶した魔力を他の魔法使いが受け取ると、少しだけ、宝石の持ち主の魔法が使える』ということを発見した。一部の魔法使いはそれを利用して、魔法を交換するようになった。それは、『Horizontal gene transfer』とも呼ばれている。基本的に一対一の等価交換だ。けれど、世の中には、ずるい人もいてね。相手の魔法を、一方的に奪うことや、魔法同士を掛け合わせることはできないか、色々悪い実験をしている。それが、『ノワールマブ』という組織だよ。僕は、その一員だ」

 その告白には驚いたけれど、私は納得してしまっていた。彼の、何かを隠しているような不思議な雰囲気には、そういう側面も影響していたのかもしれない。

「数日前に起こった集団食中毒事件は、チョコレートを食べた子どもから魔力を吸い出す研究の一環だし、この前の『水のくじら』も、ノワールマブが研究室で育てていたミュータントが逃げ出したものだ。僕は、その始末を命じられていた」

 そこで、鈴木さんはクスッと笑った。

「君は、僕の話を本当に素直に信じるからねぇ。ちょっと、罪悪感を覚えたよ」

「バカですみませんね」

「とにかく、僕はノワールマブの下っ端で、色々雑用をさせられてたんだけど、ある日、嫌になっちゃってね。組織を抜けることにした。だから、口止めに殺されるんだろうね。殺される前に死ぬのは、まさに僕らしいよ」

 男が鈴木さんを刺す瞬間や、病院に運ばれる鈴木さんの姿が目の前によぎって、胸の痛みのあまり、私は叫んでいた。

「止めてください、鈴木さん。私、本当に辛かったんですよ! 怖かったんですよ! もう、あんなことは二度と経験したくないです!」

 鈴木さんは微笑んで、

「そんなことより、君、自分の方が危ないって、気付いてないの?」

と言った。私は涙をふく。肩の力が抜けるのを感じた。

「君、今日が三回目なんでしょ? 僕には、君が夢から抜け出せなくなってしまっているように思えるなあ。君の魔法は、『夢を本当にする魔法』なんかじゃない。『パラレルワールドの自分を夢見る』魔法だ。君の世界の、本当の君は、今、どうしてる?」

 そこで、私は思い出した。

「私、死んでる……?」


 目を覚ますと、そこは病院のベッドだった。枕元には、美羽ちゃんと鈴木さん、ホシノがいた。

「よかった、目を覚まして」

 ホシノが、手を握ってくれる。鈴木さんの目は真っ赤で、今にも泣き出しそうだ。美羽ちゃんは腕を組んで、拗ねたような顔をしている。

「私、どうしたんですか?」

「公園で僕が刺されそうになったとき、僕をかばって男の前に飛び出したんだ。刺されはしなかったけれど、転んで頭を打ったんだよ。それで、しばらく眠っていたらしいねぇ。男は、もう掴まってる」

 鈴木さんは、微笑を浮かべながら説明してくれた。そして、ちょっとだけそっぽを向いて、ぼそりと言う。

「ありがとう」


「ユウキが死ななかったのは、私のおかげなのよ。私が、ちょっとだけ生命力をあげたの」

 美羽ちゃんが、唇をとがらせて言う。その仕草が可愛くて、私は笑い声をあげた。

「こんな危ないんじゃ、おちおち家に帰ることもできないわね。仕方ない、もう少し、ユウキの部屋に住むことにするわ」

「ありがとう、美羽ちゃん。やっぱり、あなたは悪魔なの?」

「秘密よ、秘密!」


 かすかな眠気がして、私は目を瞑った。ここは、とても温かい。

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