第6話 空のくじら
夕方、集団下校をしている小学生の集団とすれ違ったとき、「ねえ、知ってる?」という声が聞こえてきて、思わず耳をすませた。
「知ってる、知ってる。お天気雨の日に川に行くと、河童にさらわれちゃうんでしょ?」
「河童じゃないよ、狐だよ。お母さんが言ってた」
「一年生の子が、この前、川で溺れそうになったんだってー。足を引っ張られちゃったのかな」
「こわーい」
子どもたちは、高い声で笑って、そんな怪談とも世間話ともつかないことを言い合いながら、歩いて行く。
私は、オレンジ色に染まり始めた空を見上げた。雲ひとつない快晴だった。
翌日から、この街に雨が降り続けることになるなんて、そのときの私は思いもしなかった。
「最近、やけに雨が多くない?」
窓から空を見上げながら、私は言った。ここ二週間、晴れ間を見た覚えがない。マンションの自室の中は、部屋干ししている二人分の洗濯物のせいでじっとりとして、蒸し暑い。美羽ちゃんはスマートフォンを触りながら、
「そうね。ところでユウキ、クーラ―つけない?」
と悪魔のささやきをした。
「先月の電気代、一万円もかかったし……。多分、エアコンの使い過ぎだと思う」
「じゃあ、これで良いでしょ?」
美羽ちゃんは、財布から一万円札を取り出し、私に手渡す。惜しそうにするとか、ためらうとか、そういうことは一切なく。清々しいお金の払い方だった。
「分かったよ、つける」
私はため息をついて、エアコンのリモコンを操作した。
エアコンから冷たい風が流れ出すと、私たちは思わず笑みをこぼす。涼しい!
「ねえ、美羽ちゃん。もうとっくの昔に梅雨も明けたし、こんなに雨ばかりなのって、やっぱりおかしいよね」
「そうね。あなたの言いたいことは、分かっているわよ。魔法が絡んでると思うんでしょ」
「うん。山根先輩、どうしてるのかな……」
行方不明になった家族を想う彼の目を、思い出す。
「私、彼にとてもひどいことを言っちゃったから……」
「過去にしたことを悩んでも、仕方ないわよ。それより、これ、見て」
彼女が示したスマートフォンの画面には、あるSNSの投稿を検索した結果が表示されていた。検索キーワードは、「水のくじら」。たくさんのアカウントが、雨の中空を泳ぐくじらのようなものを見た、と書き込んでいる。
「比喩とか、ゲームの用語じゃないの?」
「ちがうわ。私も見たもの。だから、他にも見た人がいないか、気になったの」
「ふうん?」
美羽ちゃんは立ち上がり、言った。
「ユウキ、出かける支度をして。あいつの所に行きましょう」
部屋を出て、それぞれ傘を差して歩く。いつも水たまりのできる場所の区別ができないほど地面がびしょ濡れのせいで、靴下に雨水がしみて冷たい。傘も折り畳みのもので小さいので、肩が濡れてしまう。
「うぅっ」
少し気分が落ち込み始めたとき、美羽ちゃんが「ほら」と空を差した。見上げると、雨粒の描くたくさんの線の向こうに、何か丸く大きく白い塊が浮かんでいるのが見えた。雲……にしては、低すぎる。しかも、ゆっくりと動いている。
「ね、くじら、いたでしょう?」
私たちが向かったのは、大学の「魔法研究会」のサークル室だった。扉をノックしても、いつもどおり返事がないので、そのまま入る。部屋の中では、鈴木さんがこちらに背を向けて腕を組み、窓から外を眺めていた。
「こんにちは、鈴木さん。おじゃまします」
鈴木さんは振り返り、「おう」と小さく挨拶をした。
「くじらを見たんだな?」
彼に問われ、美羽ちゃんがうなずく。
「お天気雨の日に、子どもを食べていたのは、あれね」
「そうだ。あれは、雨の日に水に溶けだした人間や動物の魔力を食べて命を繋ぐ生き物だよ。この街の外れにある池に住んでいたんだが、何らかの原因でうまく餌を得られなくなったのか、育ち過ぎたのか……。池から出て、水辺にいる幼い子どもを食べるようになってしまったらしいねぇ」
「なんとかできないの?」
「うーん」
彼はうつむいてしばらく考えたあと、私の顔を見上げた。
「呼び出して欲しい人がいる。僕も、ちょっと準備するから。噴水のところで待ち合わせ、ね」
山根先輩の家に行くのは、あの「洪水を起こしたのは彼ではないか」を確かめに行った日以来だ。大学でも顔を合わせることなく、だから、不安で胸がドキドキした。
インターホンを押す。中で足音がしてすぐに、彼がドアを開けてくれた。
「結城さん、どうしたの?」
彼は無精ひげを生やしていて、前に会ったときよりも、やつれているように見えた。ねばついた汗のにおいがした。
言いたいことはたくさんあったけれど、全てのみ込んで、用件を切り出す。
「『魔法研究会』の鈴木さんってご存知ですか?」
「ああ、同じ学科だからな。なんでも見通しているような目をした奴だろ」
「その人に、山根先輩を読んできて欲しい、って言われたんです。その、空を飛ぶ水のくじらを……子どもを誘拐しているくじらを、やっつけるために」
「くじら? 最近、子どもの間で流行っている都市伝説じゃないのか」
「そうです」
山根先輩は、何のことやらさっぱり分からない、という顔をしている。私は、歯噛みした。上手く説明できない。
「その……行方不明になった妹さんが、戻ってくるのかもしれないんです」
先輩の表情が強張る。苦しんでいるのか、怒っているのか、色々な感情が入り混じった顔だ。
私は、目頭が熱くなるのを感じた。
「お願いします、一緒に来てください」
先輩と二人、雨の中をゆく。ふと、傘に当たる雨の音が止んだ。傘を下ろして見上げると、頭上に何か大きなものがいた。かすかに白く濁った水の塊……表面は波打ち、波紋を描いている。大きさは、一キロメートルぐらいありそうだ。
「なんだ、これ」
山根先輩が、目を丸くする。私も、こんな間近で見て、その迫力に圧倒される。
「こんな大きなもの、どうやって倒すんだ?」
「多分、鈴木さんには考えがあるんだと思います。そして、あなたの力が必要なんじゃないでしょうか」
私たちは顔を見合わせて、大学に向かって走り出した。
大学キャンパス内の噴水の前に着くと、鈴木さんと美羽ちゃん、それからスーツ姿の壮年の男性がいた。えっと、たしか……。
「品川教授だよ。この前、娘さんを助けたでしょ」
鈴木さんに紹介されて教授の名前を思い出した私は、慌てて教授に頭を下げた。確か、この人も水系の魔法使いだったはずだ。
大学は小高い丘の上にあって、街を見下ろすことができる。水のくじらは、街の上の低い所をくるくると回っていた。こうしてある程度離れたところから見ると、その形が分かりやすい。大きなラグビーボールのようだ。
「品川教授、あいつを、ここまで引っ張ってきてください。大丈夫です、体のほとんどが水なので、あなたに動かすことができるはずです」
鈴木君が、指示を出す。品川教授は、両手を万歳のように上げ、くいっと引き寄せた。くじらは芋虫のように体をくねらせながら、少しずつ近付いて来る。三分ほどで私たちの頭上まで来た。触れそうなほどで、正直、怖い。
「山根、雨を止ませてくれ」
鈴木さんに言われ、山根先輩はうなずいた。風もないのに、さあっと厚い雲が散って消え、陽射しが街に差す。天使の梯子のように落ちる光の柱が、最初は一本だったけれど増えてゆき、ついに空は真っ青になった。
頭上のくじらはゼリーのように震え、そして、弾けた。
強いシャワーを浴びせられ、目を瞑る。口や鼻の中まで、水が入って来る。苦しい。息ができない。
次の瞬間にはシャワーは止んだ。ハッと目を開けて、眩しさにまばたきする。
「瑠美!」
山根先輩が叫んだ。いつの間にか、地面に人が何人も横たわっている。ほとんどは幼い子どもだったけれど、大人も何人か混じっていた。
山根先輩は、その内の一人に駆け寄り、抱き起した。私も、彼のそばに行く。青い顔をした少女には、息があった。
山根先輩は、スマートフォンを取り出して、救急車を呼ぶ。だんだん野次馬らしい学生たちも集まって来て、辺りは騒然となった。
「あの生き物に食べられた人たちは、お腹の中で大切に飼われてたんだよ。だから、生きてた」
水のくじらが爆発してから二日後。魔法研究会のサークル室に寄ると鈴木さんだけがいて、私はお茶をいただくことにした。
「くじらが爆発して、中にいた人たちも開放された。これで、一件落着ってことだね」
鈴木さんは気だるげに頬杖をつき、そう説明してくれた。解放された人たちは、病院に運び込まれてすぐに目を覚ました。まだ記憶は混乱しているらしいけれど、そう遠くないうちに退院できるそうだ。
山根先輩のご家族も、無事に戻って来た。海外旅行からの帰り道、池のそばを通ったときに、食べられてしまったらしい。
もう彼は、あんな暗い目をしなくなるのだろうか。誰かを傷付けることを望んだり、裏切ることの苦しみに悶えたりすることはないのだろうか。
「雨に濡れたりシャワーを浴びたりした人間から流れ出した魔力だけ食べて生きていれば、あのくじらも駆除されることがなかったのにねぇ」
自分で倒しておきながら、鈴木さんは他人事のように言う。私は、思わず苦笑した。
「行方不明になった『魔法の素質のある人』のほとんどは帰って来ましたけど、まだの人も多いですよね」
「その人たちは、別の理由でいなくなったんだろうね。僕の知るところじゃないさ。そもそも、『ノワールマブ』自体、存在しているとは限らないんだ。ただの都市伝説かもしれないし。僕は、あまり興味ないよ」
「そんなこと言って……くじらに食べられた人たちを助けてくれたじゃないですか」
「まあね。ああなってしまえば、あの生き物も苦しいだけだし。なかなか手出しできなかったよ、僕には。あの生き物は、ごく普通に生息しているものだからさ。弱肉強食は、自然の摂理だからねぇ」
「優しいんですね」
「君、バカなの? 僕はただ、合理的かつ倫理的に生きてるだけだよ」
私がクスクスと笑うと、鈴木さんはきまり悪そうに視線を泳がせた。そして、耐えかねたのか笑い声を吹き出す。
とても楽しかった。彼と一緒にいられる時間は、いつも、長い人生の一瞬のようで、同時にその全てのように思える。愛とは、違うのかもしれない。ただ、熟れる前の果実のような、恋。熟すればすぐに腐って落ちてしまうことが、最初から分かっている甘い蜜……。
終りの予感を覚えながら、それでも私は願うのだ。穏やかな日々を、当たり前のような幸せを。
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