第5話 背中を押す魔法

 街を歩いていた。黒や灰色のスーツを着た男たちや、あどけなさの残る制服姿の生徒たち、おしゃれをした若者たち。駅前通りは、家を目指している人々と夜を楽しむ人々でにぎわっている。

 目の前を通り過ぎて行く、手を繋いだ若い男女に目を奪われる。手足を露出したスレンダーな彼女と、半ズボンと派手なスニーカーをキメた彼。おしゃれでクールだった。楽しそうに笑い合いながら歩いている姿は、微笑ましく、格好良かった。

 ふと視線をずらすと、ブティックのショーウインドーに自分自身の姿がありありと映っていて、そのぱっとしなさに、なんだか悲しくなった。だらしない体型、やぼったい長ズボン、色あせたTシャツ、寝癖の残った髪。だらんとした顎の下を指でなぞって、鮮烈な感情が胸を貫いた。

 ――変わりたい

 そのとき、背中に誰かがぶつかった。あっ、と振り返ると、ぶつかって来た人と目があった。赤茶色の、綺麗な目だった。

 彼は、言った。

「今持っている服を全部捨てて、新しい服を買いたいよね」

「はい」

「じゃあ、まず、このブティックに入ろう」

 ああ、私は、そうしたいのだ。この人は、私の気持ちを言い当ててくれた。

 財布の中身も確認せず、私は彼と連れ立ってブティックに入った。


 家に帰ると、クローゼットの中にあった服を引き出して、ほとんどゴミ袋に詰めた。空いたハンガーに、新しい服を掛けてゆく。ヒマワリの柄の黄色いワンピース、青緑色のカーディガン、すっきりした紺色のズボン……。

 結局、半分以上の服を入れ替えることになった。

「ちょっと、ユウキ。何をやっているの?」

 テレビの視聴を邪魔された美羽ちゃんが、呆れたように言う。

「服を買って来たの」

「それは、分かるけれど。らしくないわ」

 その言葉で我に返って、床にぺたんと座り込んだ。疲れた。夢中になって、いつもより身体を激しく動かしてしまったらしい。

「まあ、あなたがおしゃれに目覚めたのは良いことだけれどね。いつも、とってもダサいから」

「美羽ちゃん、辛辣だよ」

 我ながら、ずいぶん思い切った行動をしたものだ。

「ねえ、美羽ちゃん。私、もしかしたら魔法をかけられたのかもしれない。らしくなさすぎるよね」

「まあね」

 買い物をする間、ずっと一緒にいて、アドバイスをしてくれた男の人の顔を思い浮かべる。何だったんだろう、あの人。もしかしたら、彼が魔法使いなのかもしれない。

 駅前通り商店街にゆけば、彼と再び会えるような気がした。


 宵、昨日と同じころにブティックにゆくと、やっぱりショーウインドーの前に彼は立っていた。無骨なグローブをつけていて、それはミリタリー系の服装によく合っていたけれど、宝石を隠すためのようにも見えた。

 「魔法の交換」をしよう、というジェスチャーを送ってみる。彼は、身振りで「OK」と返してくれた。その夜、私は彼の住む安アパートの一室に訪れた。

「こんばんは。夜に住む私たちが、いつか光を生み出せるようになるために、星を集め分かち合い、永遠の絆を今、結びましょう」

「美しき魂を持つあなたに、私の心の切れ端を贈ります。光がこの明けない夜を満たすように」

 私の口上に応えてくれる人は、久しぶりだ。私はなんだか嬉しくなって、ニタニタしてしまう。

「俺は、イノハラ。あのブティックの店員なんだ。俺の魔法は、迷っている相手をもう一押しするというものだ。あの店はけっこう高いからね。重宝されているよ」

なるほど、そういうことか。変わりたいと思った私の気持ちを、彼はくみ取ってくれたのだ。かなりお金を散財してしまったのは、生活に大ダメージだったけれど。

「私は、ユウキと言います。私の魔法は、『夜に見た夢を本当にする』というものです」

「えっ、それは使い難そうだな。俺、夢なんてほとんど覚えていないし」

「ですよね……。交換、止めますか?」

「いやいや、やるよ」

 私たちは手を合わせて、儀式を行った。上手くいって、私の左手にまた、色が一つ増えた。


 カーペットの敷かれた床に座り、少し休憩しているとき、彼のスマートフォンが鳴った。

「こんな時間に……」

思わず、そう言ってしまう。彼は曖昧に笑って、電話を切った。

「恋人だ。あいつ、よく夜中に電話をかけてくるんだよ。眠れない、って」

「出なくて良いんですか?」

「さすがに、今は疲れてるから」

 けれど、スマートフォンはまた鳴った。やれやれ、と彼は通話に出る。

「アスカ、眠れないのか? ああ、俺も仕事を終わったばかりだ。えっ、浮気? してねぇよ。女の子といたって……客だろ? お前も、早く寝ろよ」

 優しい口調で、電話の向こうの女の子をなだめているようだった。私はなんだかいたたまれなくなって、立ち上がる。

「私、帰ります」

 彼は、スマホを耳に当てたまま、手を振って答えてくれた。


 マンションの自室に帰ると、美羽ちゃんはアニメを見終わってSNSに感想を書き込んでいるところだった。

 ヤマネ先輩のときに彼の家までついて来たのは、たまたまアニメのない日だったからで、たいてい彼女は「魔法の交換」をしている間、アニメを見ている。深夜の一時から三時ごろまでは、アニメを放送している曲が多く、私も大学一年生のころは夜更かししてよく見ていた。

「アイスクリーム買って来たんだけど、食べる?」

「食べるわ、ありがとう」

 百円玉と交換で、彼女にチョコモナカアイスをわたす。私も、ソーダ味のアイスバーの袋を開けた。

「ユウキ、最近たばこ吸わないわね」

「喫煙者の女って、モテないらしいし」

「まあ、恋する乙女って大変ね」

「そう言えば、今日交換してくれた人の恋人、すごかったよ。この時間に電話してきて、『浮気してないか』とか訊いてたもん」

「ふうん」

 美羽ちゃんは、あまり興味がないようだった。


 魔法を交換した人と連絡先を交換することはまずないのだけれど、ブティック店員のイノハラさんとは、彼がしようと言うので交換した。多分使うことはないだろうな、と思っていたら、数日後、彼から慌てたような電話が来たのだ。

「今、大学だな? 急いで、研究棟の屋上に行ってくれ! アスカ、俺の恋人がいるはずだから!」


「アスカがいつもみたいに癇癪を起こして、うんざりして思わず『死にたいのか』って聞いてしまったんだ。もしかしたら、俺の『背中をもう一押しする魔法』をかけてしまったかもしれない。くそっ、なんてこった。もし彼女が死んだら、俺は……」


 イノハラさんからの電話が切れたあと、私は講義室から三百メートルほど離れた研究棟へと走った。息を切らせながら、一階のエレベーター乗り口にたどりつき、「上へ行く」のボタンを押す。

 階の表示が下りてくる速さに、じりじりする。けれど、体力のない私が階段を上るより、エレベーターに乗った方が絶対早い。

「あれ、結城さん。こんにちは」

 通りがかった魔法研究会の鈴木さんが、私に声を掛けてきた。

「鈴木さん! 今、屋上で自殺しようとしている人がいるらしいんです!」

「はぁ?」

 鈴木さんは目を見開き、走り出した。階段を駆け上がってゆく後ろ姿を、ハラハラしながら見送る。

 丁度エレベーターが到着したので、私は乗り込んだ。


 屋上に着くと、私は辺りを見回した。お茶ができるように、テーブルと椅子のセットがいくつか置かれていて、花壇もある。その花壇のそばに、若い女の人がしゃがみ込んでいた。その人しかここにいないっていうことは、きっと彼女が「イノハラさんの恋人のアスカさん」だろう。赤いサマーセーターとジーンズを着ており、ばっちりメイクをしている。おしゃれなイノハラさんに、ぴったりな美女だった。

「あの、すみません。アスカさんですか?」

 彼女は頭をこちらに向け、そしてうなずいた。さっきまで泣いていたのだろうか、目が赤くなっている。

「イノハラさんから、電話がかかってきて……。あなたが死ぬんじゃないか、って心配していました」

「そんなこと、あるわけないじゃない。私、死にたいと本気で思ったことないし。怒ったり泣いたりしてるときに、口に出ちゃうことはあるけど」

 そう言うアスカさんは、すごく不機嫌そうだった。

「そうですか……良かったです」

 思わず、その場にしゃがみ込んだ。すごくびっくりしたから、その反動で力が抜けてしまった。そんな私を、アスカさんは鋭い目で睨みつける。怖い……。

 階段を駆け上って来た鈴木さんが屋上に着いて、二人の間で視線をさまよわせた。

「えっと、取りあえず、みんな無事、ってことかな?」

 彼は、息を切らせながら、言う。

 アスカさんは、気まずそうに立ち上がり、もじもじし始めた。

「本当に、すみません」

 私に対してと、かなり態度が違う。ムッとしたのが表情に出たのか、アスカさんは言い訳のように、

「あたなが、イノハラ君の浮気相手なんだと思ったんです。この前、夜中に、彼の部屋に入って行くのを見てしまって……。何をしていたんですか? 彼に訊いても、仕事仲間と打ち合わせしていただけだって誤魔化されて……そんな時間に、普通はしないでしょ?」

「あー」

 魔法使いではない彼女には、説明し辛い。全速力で走った後で、頭が真っ白になってしまって、嘘を考えることもできない。

 仕方なく、私は彼女にしっかりと向き合った。

「私と彼は、なんともないです。恋愛感情なんてないし、そもそも、数日前に知り合ったばかりだし。……って言うか、アスカさん、しんどくないんですか? 嘘やごまかしばかり言う男の人と付き合うの。浮気するんじゃないかって疑ってしまうって、信頼しきれてないんでしょ。そんな男、自分からフッちゃえば良いと思います」

「信頼できていないって……確かに」

 アスカさんの表情が、かげった。

「あなたの言う通りかもしれない。でも、好きなのよ。どうしようもなく、離れたくない、って思ってしまうの」

「好き、って感情に支配されるのって、良くないと思います。いつか、身を滅ぼしてしまいます」

 不安そうに私を見返すアスカさんに、私ははっきりと言う。イノハラさんからもらった魔法をこめて。

「イノハラさんを、フリましょう」


 一時間後に屋上に現れたイノハラさんは、疲れてヘトヘトという感じだった。彼が着いたとき、私と鈴木さんとアスカさんの三人は、自動販売機でコーヒーを買って、テーブルを囲んで世間話に花を咲かせていた。イノハラさんは、その様子にホッとしたらしく、穏やかな顔でテーブルに近寄って来た。

「ユウキさん、本当にありがとうございました。アスカ、一緒に帰ろう。俺、すぐに仕事に戻らないとダメなんだ」

「あのね、イノハラ君。私、あたなと別れることにした」

 アスカさんの声には、強い決心が滲んでいた。

「は、はあ?」

「もう、やっていられないの。浮気性とは、付き合えないわ」

 あっけにとられる、イノハラさん。アスカさんは、これで全て終わりだとでもいうように、缶をゴミ箱に投げ入れて、階段の方に消えた。

「まあまあ、座れよ。話、聞いてやるから」

 鈴木さんは彼に同情したようで、椅子を勧める。それから私たちは、三十分ほど屋上で反省会をした。

 イノハラさんが泣くことはなかった、彼も魔法使いだから。

 あーだこーだと意見を出し合い、私たちは出した結論は、「秘密をたくさん抱える魔法使いには、恋愛は難しい」というものだった。


 イノハラさんが帰った後、私と鈴木さんは、黙り込んだまま椅子に座っていた。

 陽射しが肌を焼き、視界は白く眩しくて、静かだった。錆びた鉄のにおいがした。

「それにしても、結城さん、思い切ったことをしたねぇ。自分も、彼女みたいな痛い経験をしたことがあるみたいだった」

「私は、まともな恋なんてしたことがありませんよ。高校は女子校だったし。ドラマや小説から得た知識です」

「ふうん。ちょっと見直したよ、君のこと」

「私もです。この前はずぶ濡れになって女の子を助けていたし、今日も、屋上まで階段をかけ上ってくれたし。私、鈴木さんのそういうところ、すごく好きです」

鈴木さんは目を見開き、それからそっぽを向いて言った。

「今日の君、なんだかいつもより明るいね。その、さ、着ている服みたいに」

 胸が、きゅんと痛くなった。今日の私は、先日買ったばかりの、ひまわり柄のワンピースを着ていた。

「ありがとうございます」

「別に、僕は、女の子の服になんて興味ないから。どんなの着てたって良いと思う。ただ、その花、君に似合ってるな、って思っただけだ」

 鈴木さんは、あくまで気だるげにそう言い、立ち上がった。

「午後からの講義、出なきゃならないから、先行くよ」

 階段を降りて行く彼の背中は、私にはとても頼もしく優しいものに見えた。


 マンションの自室に帰ってから、アスカさんとイノハラさんの話を美羽ちゃんにすると、彼女は呆れたようにため息をついた。

「人の気持ちを後押ししようと思ったら、相手が何を考えているのか推察できなければならないわ。その男、きっと、お客の気持ちを察するのが得意なんでしょうね。それなのに、長く一緒にいるはずの自分の恋人の気持ちが分からなかったなんてねー。もしかしたら、本当に浮気していたのかもよ」

「それはないと、思うけどなあ」

 アスカさんにフラれた後のイノハラさんは、しょんぼりしているように見えた。アスカさんに自分が魔法使いであると明かしていないことや、感情の起伏の激しい彼女に振り回されて、それでも彼女が好きだったことなどを、話してくれた。

「私がアスカさんに魔法をかけたこと、本当に良かったのかちょっとだけ迷ってる」

「良かったでしょう。そういう人の関係って、たいてい良くないことになるわよ」

わけ知り顔で言う美羽ちゃんに、思わず突っ込む。

「美羽ちゃん、ホントに高校生なの……?」

「そうよ。人生経験豊富な、十六歳なの」

「耳年増だよね、多分」

 あら、と美羽ちゃんは頬を膨らませてみせる。

「私だって、人と付き合ったこと、あるわよ。男も女も、ね。みんな、最初は私の美貌に魅かれてついて来るのだけれど、しばらくしたら、怖くなって逃げ出すの」

「美羽ちゃん、いつもの調子で変なからかいをしたんでしょ。それとも、あなたが悪魔だから?」

「どうかしらね。今までで一番続いているのが、ユウキ、あなたよ」

「その言い方じゃあ、私と美羽ちゃんが恋人として付き合っている、みたいに聞こえるんだけど……」

 私の言葉に、彼女は不思議そうに首を傾げた。

「違うの?」

 そう言って身を乗り出し、隣に座っている私にぐっと顔を近付けてくる。少し茶色がかった緑色の目の中央には、どこまでも続いているような深く暗い穴……瞳がぽっかりと開いている。精巧なガラス細工にも見える不思議な美しさを持った目に見つめられて、思わず身をのけ反らせた。美羽ちゃんはため息をついて、姿勢を戻す。

「つまんない。こういう場合、普通はキスするでしょ」

「しないよ。やっぱり、美羽ちゃんは、アニメを見すぎているアニメオタクの子どもだわ」

「ひっどーい。ロマンチスト、って呼んで欲しいわ」

「その呼び方も、あんまり良いイメージがあるとは思えないよ」

 私たちは笑い合って、部屋の空気は少しだけ和んだ。けれど――さっきの美羽ちゃんは、本当に怖かった。彼女は、本当に悪魔なのだろうか。私は彼女に魂を奪われつつあるのではないか。

 汗に濡れ、服のはりついてしまった背中が、やけに冷たく感じられた。

「肌寒くなってきたから、クーラ―消すわね」

 美羽ちゃんが、そう言ってリモコンを操作する。その顔には、何かを企んでいるようなニヤニヤ笑いが浮かんでいた。


 新しい服を買ったばかりのころは、毎朝コーディネートをあれこれ考えていたのだけれど、そんな張り切りは一週間ももたなかった。だんだんと、二日前と同じ服を着る回数が多くなってきて、髪の寝癖を直すのも、雑になってきてしまう。アイロンがけなんてもちろん上手くできないし、私は元の「ダサい女」に戻りつつあった。

「ねえ、君さぁ。僕に褒められたからって、一日おきに同じ服を着るの、やめなよ」

 魔法研究会のサークル室に入るやいなや、中で読書していた鈴木さんに言われてしまった。

「べっ、別に、そういうわけじゃありません。ただ、服を選ぶのが面倒なだけで」

「そう……」

 鈴木さんは、少しがっかりしたような顔で、気だるげに頭をかく。

 我ながら、ひどい回答だと思った。こういうとき、照れながら「褒められたの、すごくうれしかったんです」なんて言えたら、すごく可愛いのに。変なところで素直じゃないのだ、私は。こんな私、嫌だ……。しばらく逡巡し、そして、裏返った声を出す。

「鈴木さん、今の、冗談です。本当は、あなたに褒められたのが嬉しくて、あなたに会いそうなときは、この服を着ることにしています。

「井ノ原の魔法をもらってから、君、妙に思い切りが良くなったね。行動的というか、バカ真面目でバカ正直というか……。まあ、良いんだけど」

 鈴木さんの耳たぶが、赤くなる。私も、顔が熱くなるのを感じた。私たちは無言で、けれど互いに意識し合っているのを感じながら、そっぽを向き合っていた。心の繋がっている感じがした。照れくささと戸惑いの混ざり合った、優しい沈黙。

 先に口を開いたのは、鈴木さんだった。

「結城さん、お茶、飲む?」

「あっ、はい。いただきます」

 トッポの中で水が沸騰するのを見ながら、私は思った。こんな時間が、いつまでも続けば良いのに、と。


 そして、翌週からも、夏が終わるまで懲りずに彼の褒めてくれたヒマワリのワンピースを着続けた。

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