第108話 Believe(8)
「おれが。 オヤジのことも仕事のことも・・全部放り投げてしまえば、彼女と一緒になれた。 だけど・・できなかった、」
拓馬は詩織との別れを決意した気持ちを今思い出しても
自分自身の弱さに悔しさだけがこみ上げる。
「このまま・・オヤジが死んじゃっても。 おれはきっと白川の家を出ることはできないって思ってしまった、」
両手で顔を覆った。
「もう。 自分の決めたことなんだから。 拓馬もいつまでもメソメソしてないで。 仕事頑張りな。 おじさんだってそういうあんたの姿を見たいはずなんだから、」
楓は拓馬がかわいそうすぎて
見ていられずに、ついキツイ口調で言ってしまった。
「そう。 とにかく真面目に自分の仕事に打ち込んで。 何もかも忘れて。 そしたら・・いつか活路は開ける!」
志藤も彼の背中を叩いた。
詩織もまた
会社勤めを辞め、華道の道一本に歩みを進めた。
全国各地に母の代わりに仕事でとびまわる日常になった。
「雑誌の取材の申し込みが来ているんですが、」
移動の車の中で千崎が後部座席でこの後の仕事の確認をする詩織に言った。
彼女があまり人前に出ることが好きではないことを知る彼は彼女の反応を伺った。
「・・私でよければ。 お受けしてください、」
顔を上げることもなく無機質に答えた。
もともと物静かな彼女であったが
この頃は笑顔さえ見せず、黙々と仕事をこなしているように思えた。
詩織はバッグにしのばせた桜の栞に手をやった。
このまま
忘れることなんか
絶対に・・できない。
愛おしそうにそっと撫でた。
「電気工事士?」
父は横たわりながら母の方に視線を向けた。
「なんかね。 急に頑張り始めて。 電気工事士の資格取るって。 そうすれば仕事も増えるからって・・」
拓馬の近況を嬉しそうに話し始めた。
父は少し考え込んだあと、
「急に張り切りやがって・・」
ボソっと言ってまた背を向けた。
そっけなくそう言ったが、なんとなく嬉しい気持ちも察した母はクスっと笑った。
「来週には一旦退院だって。 よかったね、」
背中越しに声をかけた。
八月も終わりに近づいたころ
父は一度退院をした。
もちろん治ったわけでもなく
抗がん剤の治療の合間での退院で、また2週間後に入院することになっている。
まだ腰以外に痛むところはなく、本人もあまり自覚症状がないので
ひょっとしてガンの末期だなんてウソなんじゃないか、と思えるほどだった。
「おー、よしよし。 ちゃんと散歩してもらってたか、」
ハッピーに一番に駆け寄って話しかけた。
「大丈夫だよ。 毎日拓馬が朝6時には来て散歩してやってんだから、」
母は笑った。
ハッピーの頭を撫でながら、父はまたしても無言になってしまった。
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