第8話 Dear(8)

もしそれで



終わっていたら。



たぶん何も起こらなかった。



もちろん彼女にハンカチを返しに行くことのハードルが高すぎて



ためらった。



ゆうこに言って何とか返してもらおうか、とも思ったが



不思議にそれもしたくなかった。



何故なのか



今思い返してもわからなかった。



それから何事もないまま1ヶ月が経ってしまった。





「は? バリバリの日本家屋?」



拓馬は図面を見ながら父に言った。



「今じゃなかなかそういうのができる大工がいねえからって。 原田のダンナから声がかかって。 えっと・・場所は小石川だそうだ。 簡単なリフォームらしいけど、」



父の腕は評判で、けっこうこれでもなんだかんだとお呼びがかかる。



大きな仕事は近所にある建築事務所から声が掛かることが多かった。



「広い家だなァ。 庭もあるし。 金持ちそう・・」



「詳しいことは明日聞いてくるから、」





その邸宅が



あの詩織の自宅だということがわかったのは



そこに着いてからだった。



彼女の苗字が『友永』であることをすっかり忘れていて



その家の門に



『千睦流』の文字の掛け看板があるのを見て



正直



息が止まりそうだった。




「ああ・・あのときの、」



詩織の母・喜和子は拓馬のことを覚えていた。



少しの時間のことだったので、それも驚きだった。



「偶然で、驚きました。」



「そう。 建築のお仕事をされていたのですね。 とても腕のいい職人さんたちだと紹介がありました。 ウチはもうご覧の通り古い造りで。 少しずつ直したりしているんですけど。 今回は仏間と客間を。 床がミシミシといいだしたので、」



華道のお家元らしく本当に上品な婦人だった。



そこに




「あ・・」



外出しようとしていた詩織と遭遇した。



「・・こんにちわ、」



拓馬は笑顔で彼女に会釈をした。



「あのときの、」



彼女もすぐに思いだしたようだった。



この前は和服で自分よりも年下なのだろうが、同じ年くらいに見えたが



今日は髪を下ろしたスーツ姿で



やっぱり若いんだろうということが伺えた。




「そうですか。 ウチのリフォームをしていただくんですか、」



「まあ、おれはオヤジの小間使いみたいなモンですけど。 3ヶ月間、よろしくお願いします。」



拓馬はぺこんとお辞儀をした。



「こちらこそ。 古い家で大変でしょうがよろしくお願いします、」



笑顔はこの前の印象のまま



すごくすごく心に残る。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る