第3話 私はあなたを守る騎士

前座「砂漠」


 文・灰原 絵・西平まどか


 夢なんて私には必要なく、「あなたを守る」という義務感だけで、砂漠をどこまでも歩いてゆけるような気がしていた。けれども太陽は暑すぎて、月は冷たすぎた。命の水が入った水筒は空になり、自動販売機には「売り切れ」のランプが並ぶ。八方塞がりの旅の途中で、私は耐えかねてオアシスの夢を見た。


 夢で私たちは喉の渇きを癒し、お腹を満たす。仮初の愛も、勢いで吐いてしまった嘘も、そこでは本当になる。喜びだけでは飽き足らず、苦しみさえもループする。けれど醒めない夢はなく、いつか何もない砂漠で横たわる自分に気付いてしまう。


 目を覚まさないあなたはきっと、今でも終わりのない人生のループにはまり込んだままなのだろう。その夢が終わらないことを願いながら、私はこの砂漠で、前に進んでゆく。



第三話「私はあなたを守る騎士」


 とある出版社が主催する、創作絵本のコンテスト。もうすぐ、その募集期間が始まる。

 なんとか間に合わせたいのだが、どうにも納得できるような絵が描けない。

 学校の休み時間、自分の席でタブレット端末とにらめっこしていると、急に首筋に生温かいものが触れた。

「わっ?」

「そんなにびっくりしなくても良いじゃん。私だよ」

 彩ちゃんが、背後から僕の手元をのぞき込んだのだった。

「相変わらず、下手ねぇ」

「言われなくても分かってる」

 無料のお絵かきアプリを閉じて、彩ちゃんをにらむ。彼女はへらへら笑いながら、自分の椅子に反対向きに座った。椅子を斜めに傾けて、僕の机の上で頬杖をつく。

「絵本ってさ、絵を描く人と文章を書く人が違うこと、多いじゃん? 夏織も、誰か上手い人に頼めば良いんじゃないの」

「そんな友だち、いない。僕がコミュ症なの、知ってるよね?」

不満を表すために膨らませた僕の頬を、彩ちゃんが人差し指でぷにっと突く。ふふっと大人びた笑い声を漏らすと、

「あの子は?」

と面白がっているような口調で言う。僕は思わぬ所を突かれて、一瞬言葉を失った。そして、机の上で組んだ腕に顎をうずめる。

「引き受けてくれるかなー?」

 まどかちゃんの絵を、僕は一度しか見たことがない。けれど、いつもふとした瞬間に目の前に蘇って来る。塗り重ねられた青い絵具。不思議なバランスの人型。心の底にある無意識の世界を表現したような、繊細な筆遣い。

「あの子の絵、好きだよ。だけど、なんだか、自分のためだけに描いてるような気がするんだよね。人に見せたり、誰かのリクエスト通りに描いたりはしなさそう」

「ふーん」

 彩ちゃんは、淡いピンク色のマニキュアを塗った爪先を伸ばす。日光がちらちらと反射する様子を、しばらく無言で見つめていた。そして、おもむろに口を開く。

「……その子がどうかは分かんないけど、美術部は部として、コミッションを受け付けてるらしいよ。一度、活動日に美術室に行ってみたら?」

 僕は曖昧にうなずいた。


 あまり乗り気ではなかったのだが、親友に勧められたこともあって、僕は放課後に美術室を訪ねた。ドアを開けるのを躊躇い、窓から中の様子をうかがう。今日はちゃんと電灯がついていて、賑やかな話声が聞こえる。自分が属しているグループ以外の笑い声というものは、針の束や毒薬のように痛くて体に悪いものだ。帰ってしまいたくてたまらなかったけれど、意を決してドアノブを握った。

 中にいた生徒たちの目が、いっせいに僕の方を向く。不思議そうな目、何も考えていなさそうな目、非難の目、こちらを値踏みするような目。様々な感情を向けられて、僕は吐きそうになる。どぎまぎしながら、

「えっと、美術部でコミッションを受けてるって聞きまして……」

となんとか言葉を絞り出した。

 すると、ロングヘアの女の子がにこっと笑って、

「私が部長の山田です。お話、聞きますよ」

と優しく答えてくれた。緊張していた部屋の空気が緩み、他の部員たちもそれぞれの作業やお喋りに戻ってゆく。

 山田部長は自分の隣にあった椅子を机から引き出し、僕に座るように促す。

「画材の値段プラス、作業一時間につき千円、ってことになってます。SNSのアイコンですか? それとも、パンフレットの表紙とか?」

「僕、絵本を作りたいんです」

「まあ」

 嬉しそうな声を上げ、山田部長は胸の前で手を合わせる。

「お話は、できているんですか?」

「一応……持ってきました」

 床に置いた鞄から、タブレット端末を取り出す。アルバムに入っているのは、僕が描いた下手くそな絵。見せるのに勇気が要ったが、山田部長はバカにすることもなく、笑顔のまま読んでくれる。

 ふと、目の端で誰かが動いた。そちらに視線を向けて、部屋の隅にまどかちゃんがいたことに気付く。画架に向かっていた彼女は立ち上がり、僕たちの方に近寄って来る。

「部長、まどかも読みたいです」

「良いですか、夏織さん?」

「あっ、はい」

 まどかちゃんは危なっかしい手付きでタブレットを受け取ると、画面を食い入るように見た。まるまる一分ほど見つめていただろうか。スクロールをして次のページに移動する。

「依頼、まどかが受けます」

 画面から目を離さないままで、彼女は言った。僕はびっくりして、

「良いの? ホントに?」

と上ずった声が出た。

「まどかちゃんの絵、すごく好きで。一目ぼれして。だけど……」

「だけど?」

 まどかちゃんが顔を上げ、不思議そうに僕を見る。少し、怒っているようにも見えた。

「なんでもない。ホントに、ありがとう!」

 嬉しさのあまり、まどかちゃんに握手を求めたくなる。彼女に向かって伸ばした手は、急に横から伸びて来た誰かの手によって払いのけられた。ぎょっとして引っ込める。

 その子は、僕とまどかちゃんの間で仁王立ちをし、

「まどかは忙しいの! あんたなんかの駄作に時間を割いてる暇なんてない!」

とドスのきいた声で言い切った。突然現れた彼女は、僕から守るようにまどかちゃんを背中に隠す。

「えっと……あなたはどなたですか?」

 赤茶色のロングヘアを、黄色い水玉模様のカチューシャで押さえている。スカートの丈は膝下一センチぐらいで、真面目に校則を守るタイプらしい。気の強そうなぱっちりした目で、僕を睨み付けて来る。

「私は灰原(はいばら)。美術部の副部長よ。私の権限で、あなたの依頼は断らせていただきます」

 突然敵意を向けられて、僕はしどろもどろになる。山田部長は、やれやれというように肩をすくめる。

「早く帰ってください!」

動物を追い払うようにしっしと手を振る灰原さんの後ろで、まどかちゃんが

「まどか、絵本、描きたい」

と呟いた。灰原さんはハッとしたように振り返り、まどかちゃんに顔をぐっと近づけて

「こんなわけわかんない奴と関わっちゃダメ」

と保護者のようなことを言う。

「わけわかんない人じゃないよ。まどかたち、友だちだから」

「友だち? 嘘でしょ」

 訝しげに睨まれて、僕は返答に困る。彼女とはまだ数回しか話したことがなくて、友だちになったとは認識していなかった。けれど、まさか「違う」とも言えない。

「灰原ちゃん、まどか、ちゃんと美術展用の絵も描くよ。両方できる」

「そう言うなら、仕方ないけど……」

 呆れたような顔で様子を見守っていた山田部長が、ぱちんと手を叩いた。

「みんな、そろそろ作業に戻りましょう。夏織さんは、まどかさんと二人でよく相談してください」

 灰原さんが、

「二人? 私が間に入ります」

と高い声を上げる。

「あなたね、まどかさんの保護者気取りもほどほどにしなさい。私たち、もう中学生なのよ?」

 彼女はうっと顎を引き、唇を引き締めた。言い返す言葉が思いつかなかったらしく、また僕を睨んで来る。

「灰原ちゃん、夏織くんを苛めないで」

「まどか、私は苛めてなんか……」

 顔を真っ赤にしている灰原さんの頭に、山田部長がそっと手を置いた。

「まどかさんより、あなたの方がよっぽど子どもね」

 灰原さんはきゅっと唇を噛みしめ、低い声を出す。

「部長、この人の背中には、とんでもない悪霊がついています。まどかは繊細な子です。悪影響を受けて、体調を崩すかもしれない」

 そう言って、虹彩と瞳の区別が付かないほど真っ暗な目で、僕の顔をのぞき込んだ。

 山田部長は溜息をつくと、灰原さんの背中を押して自分の席に座らせた。

 まどかちゃんが、僕に手を差し出してくる。

「よろしくね、夏織くん」

 僕は、その小さな手を握り返した。


 夜。自分の部屋のベッドに背中から倒れ込む。天井の白い電灯の周りで、虫がぶんぶん飛び回っている。それは痛々しいほど激しく羽ばたいていたけれど、急に静かになった。電灯の熱で死んでしまったのかもしれない。

「悪霊……か……」

 灰原さんは、本当に僕の後ろに何かを見たのだろうか。あの目は、嘘を言っているようには見えなかった。人の心の深淵をのぞいているような、真っ黒な瞳。

 ――母は、僕の目の前で亡くなった。通り魔に包丁で刺されて、お腹から真っ赤な血を吹き出しながら、僕に向かって手を伸ばした。


「夏織……おねが……」


 そう、絞り出すような声は、最後まで言葉にできずに途切れた。僕の白いシャツに、べっとりとついた赤黒いもの。鼻に突き刺さる鉄のにおい。誰かが壊れたラジオのように笑う声。ざらざらと鼓膜をこするノイズ。砂嵐になったテレビの画面。父が、テレビを叩き壊したのだ。通り魔事件について偏向報道をするニュース番組を憎んで。穏やかな父が。優しい父が。姉の必死の制止を振り切って、ゴルフクラブを何度も叩きつける。泣いている姉。腕を切られて、痛みに悶絶している姉。タイル張りの地面の上でのたうつ手足。地面の冷たさ。生ぬるい風。照り付ける太陽。

 息が吸えない。苦しい。心臓が今にも壊れそうなほど、激しく打つ。痛い。

 布団の上にはいつくばって、ぜえぜえと必死で息を吐く。

 死にたくない。死にたくない。死んでたまるものか。お母さんは、僕を――


 柔らかい布団に体をうずめる。びっしょりと汗をかいていて、気持ち悪い。もう一度シャワーを浴びてこようか。でも、姉がもう風呂掃除を終えているはずだ。溜息をついて、寝返りを打った。

 僕の背中に悪霊がついているとしたら、それはきっと母だろう。


 翌日も、僕は美術室を訪ねた。美術部の活動日ではないが、まどかちゃんと打ち合わせをすることになっていたのだ。

 美術室のドアを開けたとたん、

「私は絶対に認めないからねっ!」

 ととげとげしい声をぶつけられた。灰原さんだった。画架に向かって筆を動かしているまどかちゃんを守るように仁王立ちし、僕を睨み付ける。動悸がし始めた。吐きそうになり、口を両手で押さえる。

「灰原ちゃん。まどかは大丈夫だから。職員室に呼ばれてるんだよね、早く行きなよ」

 灰原さんはすれ違いざまに、「ふん」とメンチを切り、部屋から出ていった。ばたん、とドアが壊れるんじゃないかと心配になるほど強く閉める。

 だんだん落ち着いて来た僕に、まどかちゃんが

「最初のページ、描いてみたの」

と手招きした。画架に掛けられている画用紙の中には、青空が広がっていた。透き通るような水色、綿のようなふわふわとした雲、手を広げて空を舞っている、アンバランスな体型の白い人型。その清涼さのおかげで、僕の気分がさあっと晴れてゆく。

「綺麗……」

 そんなありきたりな言葉しか、出て来なかった。まどかちゃんが目を細めて微笑む。窓から光がすっと射し込み、空気中を舞っている埃をきらめかせる。それはまるで、彼女の背中に生えている透明な妖精の羽の鱗粉のようだった。僕は深呼吸をする。もう、大丈夫だ。

「まどか、そんなに筆の速い方じゃないから。完成させるのに、一か月くらいかかると思う」

「うん、コンクールの締め切りまでまだ三か月あるよ」

 まどかちゃんの顔に、ふっと影が落ちた。目の下と鼻筋にできた青い影は、彼女の皮膚の白さを際立たせる。急に、大人びる表情。

「灰原ちゃんのことだけど……」

 小さな声で、ぼそりとささやく。

「灰原ちゃんの霊感は、本物じゃないよ。夏織くんの背中には、悪霊なんていない」



幕間「青く染まった街」


 文・カオリ 絵・西平まどか


 理由のない不安が街を襲った。私は「明日、世界は真っ青に塗り替えられるだろう」と日記に書いた。

 不安はいつも唐突に、何の前兆もなくやって来る。路傍の花は普段通りに風に揺れ、雲は青皿に浮かび、蛇口をひねると水が流れ出すのに、人々は焦って対応策を始めてしまう。そのたびに何かがおかしくなって、当たり前が当たり前じゃなくなってゆくのだ。


 壁も地面も、何もかもが青く染まった街の片隅で、小さな女の子が泣いている。私はしゃがんでその子の顔をのぞき込み、「雨が降ったら元通りになるからね」と言った。それでも女の子は泣き止まず、涙の落ちた道が、少しだけそれ自体の色を取り戻した。

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