第2話 回り始めた歯車
性別に関わらず制服のスカートとズボンを選べる制度が始まって、二日目。僕は今日も、壁に掛けた二枚とにらめっこをしている。
彩ちゃんのように、自分が好きなおしゃれの一環として、スカートの丈を短くするのはすてきだと思う。だけど、女の子だからという理由でスカートを履くのは、「何か違う」気がするのだ。自分の好みや性質と全く別の所で、分類され区別され定義されるのは嫌だ。彩ちゃんと僕は違う人間だ。周りにいるたくさんの中学生女子たちと、僕は全然違う。ひとくくりにされたくない。
けれど、ズボンを履くのも「何か違う」。逃れたはずなのに、またべつのくくりにはめ込まれてしまう。僕は男じゃないし、活発なスポーツ少女でもない。……じゃあ、何なんだ?
僕は一体、何なんだ?
そんなことをぐだぐだ考えているうちに時間が経って、姉が
「夏織―、遅れるよ」
と階下から声を掛けて来た。昨日もそうだった。自分で自分に呆れる。
僕はズボンを引っつかむと、
「すぐ行く!」
と返事をした。
同じ学年の全てのクラス合同で、体育の授業中にスポーツテストが行われた。僕はわりと体力のある方で、シャトルランでは最後まで残っていた。軽々と走り終えた僕を、早々に脱落した彩ちゃんが迎えてくれる。
「ピンピンしてんね。よーやるわ。運動部にでも入れば良いのに」
「部活って、面倒くさいんだもん」
へとへとになって脚を伸ばしている彩ちゃんの隣で、三角座りをする。何気なく運動場を見回していると、ふと視線が何かに引っ掛かった。校庭の隅っこにあるベンチに、誰かが座っている。顎のあたりで切りそろえられた淡い茶色の髪が、初夏の白い日差しを浴びて天使のリングのように光っている。一瞬、彼女の背中に翼が生えているのが見えた気がした。大学ノートを膝の上で開き、さらさらと鉛筆を走らせている。
「あの子……」
昨日、美術室で会った子だ。自分の描いていた絵を、僕の目の前でバラバラに引き裂いた子。
「ん? 誰? 見えないんだけど」
目が悪い彩ちゃんが、目を細めて眉間にしわを寄せる。授業中だけ掛けている眼鏡は、教室に置いて来てしまったらしい。
「何でもない。そろそろ、ボール投げの方行こうよ」
「あー、嫌だ嫌だ」
「早く終わらせて、食堂にジュース買いに行こ」
ジュースのことを考えて少し元気が出たのか、彩ちゃんが立ち上がる。僕たちはじゃれ合いながら歩き出した。ちらりとベンチの方に目をやると、あの子はまだ、熱心に何かを描いていた。
昼休憩、彩ちゃんと一緒に食堂で日替わり定食を食べた後。僕たちは、第一校舎と第二校舎の間を繋ぐ通路をわたっていた。通路は外にあり、屋根が付いていて地面よりも少し高くなっているので上履きでも歩くことができる。
「暑いねー」
彩ちゃんの白すぎる肌。頬だけが赤く火照り、じんわりと汗が浮かんでいる。むき出しの腕で、覆いかぶさった髪ごと汗を拭い上げ、そのまま空に向かってぐっと伸ばす。初夏のねっとりとした空気の中で、彼女は瑞々しい輝きを放っている。
彩ちゃんから目を逸らすように校庭の方を向くと、また何かに引っ掛かった。庭の隅にある池の前に、あの子が座り込んでいた。メロンパンを一口食べては、手で少しちぎり、池に落とす。その動作を、ゆっくりと何度も繰り返している。
「池の魚に、餌やってるのかな……」
「ん?」
彩ちゃんはスカートのポケットから縁の赤い眼鏡を取り出し、私の指している方を見る。そして、複雑な表情になった。
「あー、あの子か」
「知ってるの?」
「隣のクラスの子だよ。なんか、ちょっと変わってるんだよね。苛められてるわけではなさそうなんだけど、みんな遠巻きにしてるって言うか、扱いに困ってるって言うか……」
「そうなんだ」
美術室であったことを思い出す。舞い散る青い紙。ばらばらにされた海。
「僕、あの子に嫌われたみたい」
「そんなこと、ないと思うけどなー」
彩ちゃんは溜息をつくと、眼鏡をポケットにしまった。僕を置いて、両手をぶらぶらさせながら校舎に入ってゆく。慌てて、その背中を追った。
土曜日の朝、自宅の最寄り駅に着くと、改札の前にホワイトボードが置かれているのが見えた。電光掲示板がいつもと違い、赤くチカチカ点滅している。電車の運行が見合わされているらしい。理由は、線路に野生動物が侵入したから。田舎らしいなぁ、と溜息をつく。何の動物だろう。
待合室で読書をして時間を潰す。電車が動き出したのは、一時間後だった。二時間目には間に合わない。土曜日は午前中しか授業がないので、半分しか受けられないことになる。
「サボっちゃおうかな」
呟いてみるが、家には姉がいる。今から帰ったら、こっぴどく怒られてしまうだろう。私立中学校の授業料は高い。一円だって無駄にするな、と言われるはずだ。
仕方なく、ホームに滑り込んで来た電車に乗り込んだ。
休日の昼間の街は、普段よりも時間の流れが遅くなって、もったりとして感じられる。そののんびりした空気に包まれて、僕の動きもゆっくりになる。
次のバスが来るまで一時間もあったので、学校まで歩いてゆくことにした。
陽射しが強い。カッターシャツに、じんわりと汗染みが広がる。
駅前通りでは、フリーマーケットが行われていた。午前の白い光の中、くすんだ青色のテントがずらりと並び、そこここで人々の明るい笑い声が起こっている。心地よいざわめきだ。
キラキラ光っているビーズのイアリングに惹きつけられて、アクセサリーを取り扱っている店をのぞく。小さな熊のぬいぐるみがついているシュシュ、風鈴の形をしていて音もなるピアス、水玉模様のカチューシャ。可愛い。他の店ではあまり見かけないような、個性的な商品が多い。
腰をかがめてじっと見ていると、店員のおばさんに
「これとか、似合うんじゃない?」
と声を掛けられた。おばさんが持っていたのは、金属製のイアリングだった。銀色と銅色、青鉄色のちいさな歯車が、三つ吊るされている。
「これ、回るんだよ」
おばさんが、そっと一番上の歯車に触れる。すると、その回転が下の歯車にも伝わって、きりきりと三つ全てが噛みあいながら回り始めた。
「か、可愛い! これ、いくらですか?」
「千五百円」
足りないかもしれない、と心配しながら財布を取り出す。父からもらったドーナツ代のおかげで、なんとか払うことができた。
特に深い理由もなく、左の耳たぶの方に吊るすことにする。電車の遅延のせいで少し落ちていた気分が、空まで届きそうなほど上がって来る。
軽くスキップをしながら歩いていると、視界の隅に何かが引っかかった。
「あれ……また、あの子」
歩道の途中が小さな広場になっていて、一本の広葉樹が植えられている。その木の下にあるベンチに、あの子が座っていた。うつむいて、膝の上で揃えた手をじっと見つめている。黄緑色の木漏れ日が、白いシャツの上でちらちらと揺れていた。
放っておいてはいけない気がした。僕はゆっくりとその子に近付き、前に立つ。しかし、その子は気付いているのかいないのか、視線を落したまま動かない。どうしようか迷い、僕はその子の隣に腰を下ろした。しばらく息を詰めていたけれど、痺れを切らして口を開く。
「学校、サボってるの? まあ、僕が言えたことじゃないけど」
その子は、ハッとこちらに振り向いた。大きく見開かれた明るい茶色の目が、僕を真っ直ぐにとらえる。見つめられるのが恥ずかしくて、僕から視線を逸らせた。その子もまた、すっと俯く。
「校門をくぐれない。朝の八時ぴったりじゃないと、入っちゃいけないから」
「そんな決まり、あったっけ」
「ある」
この子が何を言いたいのかはよく分からなかったけれど、取りあえず学校に行けないらしいということは理解した。
「それなら、僕も行かない、学校」
その子が、不思議そうに僕を見上げる。
「僕の名前、夏織(かおり)っていうんだ。君は?」
「……西平まどか」
「まどかちゃん、って呼んで良い?」
「良いよ、夏織くん」
まどかちゃんに名前を呼ばれると、こそばゆい感じがした。
「まどかちゃんも、ズボンを履いてるんだね」
「スカート、苦手だから。すーすーするし、ひらひらして邪魔」
まどかちゃんは、ことばをぽいと虚空に投げるような話し方をする。ずっとぼんやりとした無表情だったのだが、不意にふわりと微笑んだ。
「耳の、可愛いね」
「良いでしょ。回るんだ」
「触っても良い?」
まどかちゃんが、そろりそろりと手を伸ばす。指先が、僕の頬に触れた。硬くひんやりとしている。
「ホントだ。くるくるしてる」
ふふふ、とまどかちゃんが楽しそうに笑い声を上げる。初対面があんな感じだったので、嫌われてるんじゃないかと思っていたのだけれど、何度も歯車を回している彼女を見ていると、そう簡単な話でもないのだろうと分かって来た。「どうして絵を破ったの」と聞きたくてたまらなかった。けれど、どうしてもできなかった。代わりに、
「校庭の池って、何が住んでるの?」
と言葉が口から滑り落ちた。
「亀」
「へー! 全然、知らなかったなぁ。ただのドブだと思ってた」
「四匹いるよ。まどか、動物好きだから」
「僕、ウーパールーパー飼ってるんだ。写真、見る?」
鞄からスマートフォンを取り出し、待ち受け画像をまどかちゃんに見せる。
「ピンク色だ。可愛いね」
「でしょー? 僕はほとんど世話してないけど。お姉ちゃんが可愛がってる」
まどかちゃんは、食い入るように水槽の写真を見つめている。喜んでもらえたことが嬉しくて、ついついフォルダを開けて他の写真も表示させる。
まどかちゃんが画面に指を伸ばし、すっとスクロールさせた。
「あ……」
僕は慌てて、スマホの画面を暗くする。まどかちゃんはきょとんとして、僕を不思議そうに見る。
「な、なんでもないから」
「そうなの?」
見られただろうけれど、一瞬だったから何かは分からなかったはずだ。顔が熱くなるのを感じる。
他の人には、見られても平気だ。けれど、まどかちゃんに見られるのは恥ずかしい。
下手くそが描いた、絵本なんて。
「あっ、そうだ!」
気まずくなった空気を振り払うように、僕は立ち上がる。腕時計を確認すると、正午の五分前だった。ちょうど良い時間だ。
困ったような顔をしているまどかちゃんの片手を、そっと掴む。細くて堅くて冷たくて、骨を直接つかんでいるんじゃないかという気がする。
僕たちは手を繋いで、駅前通りを進んでゆく。最初は僕がまどかちゃんを引っぱっているような感じだったけれど、だんだん二人の歩調がそろってくる。彼女にも、行き先が分かったのだろう。中央公園。芝生の広場。
公園の中には、幼い子どもを連れた家族やサッカー少年、ランニングをしているおじさん、ベンチに横たわっているホームレスのおじさんなど、様々な人たちがそれぞれの時間を過ごしていた。僕たちは、公園の真ん中にある噴水へと真っ直ぐ歩いた。水色のタイル張りの人工池は静かで、水面がぴんと張りつめている。もうすぐ、のはずなんだけど。
ポンプが水をくみ上げる音がし始める。あっ、と思った瞬間、池の中心から水柱が立った。それを円く囲むように、小さな柱も次々と上がり始める。火照った体を、霧のような水しぶきが包み込む。高く、高く、もっと高く。水はキラキラと輝きながら、晴天の空へと伸びてゆく。
「綺麗だね、まどかちゃん」
彼女は言葉で答える代わりに、僕の手をぎゅっと強く握り返して来た。
幕間「海水浴、あるいは空水浴」
文・カオリ 絵・西平まどか
机の上にのっている箱に、わけのわからない複雑な物体が入っているとしよう。取り出して光を当ててて、よく観察したくなっても、箱から出すと恐ろしい天変地異が起こるようなきがして、どうしてもできなかった場合。
「君はこの箱を、どうする?」
「蓋をしめて、リサイクルショップに売る」
あいつがまた、しょうもない思考実験をしているんだと思った僕は、深く考えずに答えた。しかし、次の日空と地がひっくり返ってしまって、あいつの「箱の話」が本当だったのかもしれないと不安になった。
僕たちは今、太陽のない地下街みたいな空間で暮らしている。足元には水溜りがたくさんあって、一緒になってしまった空と海の中で魚が泳いでいる。電灯があるし、あらゆる物が工業的に作れるので、生活はたいして変わらない。ただ、どうしようもない閉塞感があるだけだ。
世界を狂わせてしまった原因の一つは、きっと僕にある。気まずくてあいつに会いに行けなかったのだけれど、ある日、僕たちは広場で偶然顔を合わせた。
「悪かったな。その……テキトーなアドバイスをしちまって」
「私こそ、ごめん。実は君の意見に乗らないで、自分で『それ』を箱から出しちゃったんだ。こんなことになるなんて、私の想像力を超えてるよ」
「まあ、良いんじゃないか。みんな、それほど困ってなさそうだし」
僕たちは、曖昧な笑みを交わしあった。そして、午後から一緒に海水浴(あるいは空水浴)に行く約束をした。
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