雨上がり、そして夏の夜

雨希

第1話 青い絵の具とスラックス

 自室の窓を開けたとたん、鼻の粘膜を湿らすような雨上がりの街の風が吹き込んで来た。仄かに水と土の匂いがする冷たい空気が僕の体を包み込む。空は重そうな灰色の雲で覆われているが、一片だけ青空がのぞいている。ベランダの柵には透明な滴が一列にならび、今にも膨らんで落ちてしまいそうになっている。身を乗り出し、家の前の道が黒く湿っているのを見る。庭で父が育てている赤いバラが、瑞々しくつやめいている。

 僕は、雨上がりという瞬間を、全ての季節の中で一番愛している。

 ゆっくりと雨の匂いを味わったあと、カーテンを閉めて着替えに取り掛かった。

 姿見に向かい合う。肩にぎりぎり付かないくらいの黒髪を、後頭部の高い位置できゅっと一つにまとめた。敬愛するミュージシャンを真似ている、お気に入りの髪型。

 壁に掛けている制服は、水色のカッターシャツの他に二枚ある。紺色のプリーツスカートと、黒いスラックス。その二つを見比べているうちに長い時間が経ってしまったようで、階下から

「夏織(かおり)、早くしないと電車に遅れるよ」

と姉に呼ばれた。僕は「はーい」と返事をし、決心してスラックスの方を取った。


 性別に関わらず、制服のスカートとズボンを選ぶことができる。最近、日本のあちこちの学校で採用されているその制度が、僕の通う中学校でも今日から始まった。

 正直、どう受け止めて良いのか分からなかった。男子生徒がスカートを履くようになったら、女性扱いされるようになるというわけではない。学校が意図していることは、性別の越境なのか区別の撤廃なのか、セックスではなくジェンダー役割を見直すことなのか。どうにも曖昧で、上手く呑み込むことができない。

 そして、制度が始まってすぐにズボンを買った自分が、本当は何を望んでいるのかも、よく分からないのだった。


 従兄と曾祖母、そして母の写真が置かれた仏壇に手を合わせ、家を出る。玄関のドアを開けた瞬間に、また全身が水に包まれたような気がして、深呼吸をした。

「いってきます。お姉ちゃん、帰りに駅でドーナツ買ってくるね」

「コーヒーと和三盆が良いなー」

「りょおっかい」

 走って階段を降りようとすると、滑って転びそうになった。とっさにジャンプして難を逃れ、速度を緩めて駅への道をゆく。

 何もかもが濡れて輝いていた。まるで、生きているのが嬉しくてたまらないというように。


 教室に入ると、何人かの生徒が僕の方に視線を送って来た。挨拶をするわけでもなく、しばらく不思議そうに僕の全身を見回し、また仲間とのじゃれ合いに戻ってゆく。

 教室の全体を見回し、思わず「そんなもんか」と呟いた。

 ズボンを履いている女子生徒も、スカートを履いている男子生徒も、一人もいなかった。

 僕だけだ。僕だけが、


 ――女子なのにズボンを履いている。


 校長から制度の説明があった直後は、

「スカートって、自転車に乗るのが危ないもんねー」

「冬は寒いし、夏は透けちゃって周りの目が気になるし」

「私も、ズボンにしようかな」

とワイワイ騒いでいた女子たちは、みんな、今まで通りにスカートを履いていた。

 教室の隅にある自分の席につく。前の席の彩(あや)ちゃんが、椅子を斜めに傾けて僕の机の上に腕を置いた。

「あらあら、すっかり男の子になっちゃって」

 呆れたような口調で言い、僕を上目遣いで見て来る。

彩ちゃんは、唇に薄赤色の薬用リップクリームを塗っていて、切れ長の目と綺麗に整えられたショートボブも合わさって、とても大人っぽく見える。スカートも、太ももが見えるほど短く折っているのだ。

「……男の子に見える?」

「冗談よ、冗談」

「だよねぇ」

 さっきまで晴れやかだった気持ちが、暗い感情のもやもやで埋もれてゆく。複雑で、上手く言葉にできないもやもや。

「まあ、良いんじゃない。ズボン、よく似合ってる」

彩ちゃんは、にかっと笑って椅子を戻した。

 ぱらぱらと音がして窓の外に視線を向けると、雨が降り始めていた。街が、灰色のベールを掛けられたように暗く沈んでゆく。


 放課後、一緒に下校することになっている彩ちゃんを教室で待たせて、僕は美術室に向かっていた。三時間目の美術の授業のとき、ハンカチを忘れて来てしまったのだ。

 廊下は騒がしい。野球部のユニフォームを着た日焼けした男子が、大声で笑い合いながらすれ違ってゆく。音楽室から漏れて来る、軽やかなピアノと伸びやかな歌声。どこかの教室で、教師が生徒を怒鳴りつける声。天井のスピーカーからあふれ出す、放送部による詩の朗読の声。

 そんな明るい空気に包まれて、僕もいくらか元気が出て来ていた。二段飛ばしで階段を駆け上がり、小さくスキップをしながら美術室の扉を開ける。電灯がついていなかったので無人だと思ったのだが、そこには小さな生徒の背中があった。

「あ……」

 その子は、画架に向かって筆を動かしていた。薄暗い部屋の中、高い位置にある窓から四角い筒のような白い光が斜めに射しこみ、その子の髪を淡い茶色にきらめかせている。

 油絵の具のねっとりとした匂い。壁には様々な色の線が引かれ、偶然の産物のはずなのに不思議と調和している。ぽつぽつと、蛇口から滴の垂れる音。光と影のコントラストが強い部屋の中で、その子は一心に筆を動かしている。

 邪魔をしたくなかったのだが、運の悪いことに、彼女の座っている席の隣の机に僕のハンカチがのっていた。机と机の間の狭い通路を、抜き足差し足で進んでゆく。その子は僕に気付いていないのか、画用紙に向かったままだ。

 ハンカチをひょいと持ち上げたとき、その子の描いている絵が目に入った。思わず、わあ、と声が漏れる。

 海の中に、女の子が立っていた。頭が大きくて体の細い人型が、画用紙いっぱいに幾重にも塗り重ねられた波打つ線の真ん中に、頼りなげに浮かんでいる。

 海だと思ったのは、画面が全体的に青色っぽかったからだ。けれど、僕には名前の分からない様々な色が複雑に重なり合っていて、本当は別のものを表現しているのかもしれない。

 写実的ではない。人型は絵本の登場人物のようにデフォルメされている。なのに、そこには「本当の世界」が存在していた。目に見えるものだけじゃない、心や夢を流し込んだような……

「きれい」

 つい、僕はそう声に出してしまった。絵を描いていた子がぎょっとこちらに振り向く。目を大きく見開いて、僕を凝視する。虹彩は、宝石のタイガーアイのような明るい茶色をしていた。

 女の子だろう、と思った。その子は、制服のズボンを履いていた。僕以外で、初めて見た。

 見つめられてどぎまぎしながら、怪しい者ではないんですよ、と声を低くする。

「僕、この絵、すごく好き」

 女の子の瞳が揺れた。ぷいとそっぽを向くと、画用紙に手を伸ばす。

 一瞬のことだった。画用紙が破かれ、紙吹雪のように散ったのは。

「え、なんで……」

 女の子はしかめっ面になると、さっさと絵具を片付けて僕の前から走り去ってしまった。僕のことは、もう二度と見なかった。

 残された僕は、床に散らばった青い欠片を手に取る。

とても酷いことをしてしまったのだ、多分。けれど、何が悪かったのかさっぱり分からなかった。

 しゃがみ込み、欠片を一枚一枚拾い上げてゆく。復元したかったけれど、人型以外は波打つ線しか描かれていないため、ほとんど区別がつかない。

「ごめんなさい」

 そう呟いた声は、当然あの子には届かない。


 僕は、電車通学をしている。別の路線で帰る彩ちゃんと別れ、駅ビルの中にあるオーガニックドーナツ店へと向かう。

 ふと何気なく自分の手を見て、指先が絵具で汚れていることに気付いた。青や緑の絵具が、べっとりと付いてしまっている。この手でドーナツの箱を持つのは、良くないだろう。

 駅のトイレは薄暗く灰色に汚れていて、空気がじっとりと濁っていた。あまり好きではない雰囲気だ。早く出たかったのだが、絵具はなかなか取れなかった。石鹸を使いごしごし手をこすり合わすことに熱中していると、「あら」という甲高い声がした。ハッとして振り向くと、そこには引きつった笑みを浮かべたおばさんが立っていた。高級そうな、細かい刺繍のほどこされたブラウスを着ている。

「あなた、ここ女子トイレよ?」

何を言われたのか、よく分からなかった。しばらく悩み、そして、胸がカッと熱くなる。

「すみません」

 僕はトイレから飛び出した。心臓が苦しい。駅ビルの壁にもたれかかって、激しく打っている胸を手でぎゅっと押さえる。冷たかった。濡れた手を拭く間もなかったのだ。

 どうして自分がこんなにも動揺しているのか、よく分からなかった。

 本当は、今だけじゃない。いつだって、僕は自分のことが分からない。

 「私」という一人称よりも「僕」の方が体になじむ。

 スカートよりも、ズボンを履きたいと思う。

 「あなたは女の子なんだから、そんなことをしちゃだめ」と言われると、ひどく傷付く。

 けれど。

 僕は、男になりたいわけじゃないんだ――


 買い物をする気分ではなかったけれど、姉と約束したので、ドーナツ店の列に並ぶ。順番が来て、頼まれたコーヒーと和三盆フレーバーを頼む。

「その二つでよろしいでしょうか?」

 店員のお姉さんが、僕に向かって微笑んでくれる。営業スマイルだ。心の奥底では、どう思っているのか分からない。仕事なんて嫌だ、早く帰りたいと思っているのかもしれない。男だか女だかよく分からない学生だな、と不気味がっているのかもしれない。

 そんなことを考えていると、ふつふつと怒りが湧き上がって来た。誰に対する怒りなのだろう。自分自身に、かもしれない。

「全部の味、一つずつください!」

 むしゃくしゃした気持ちを振り払うように、そう叫んだ。ドーナツ一つ、三百円。店に並んでいるのは、十五種類。今月のお小遣いが全部吹っ飛ぶが、そんなの知ったこっちゃない。今日はやけ食いだ!

 大きな箱を抱えて帰宅した僕を見て、姉は目を真ん丸くしていた。

「僕が食べるから、気にしないで」

「そうなの? 言い忘れてたけど、今日は久しぶりにお父さんが帰って来るのよ。甘党だから、きっと喜ぶと思うんだけど」

 玄関先で姉と立ち話をしていると、背後でドアがガチャリと鳴った。

「ただいま、夏織、夏帆(かほ)」

 久しぶりに会う父は、疲れてボロボロになっていた。スーツの上着は糸がほつれ、眼鏡はずり落ち、元々は大きい目のまぶたが重そうに垂れている。けれど、私が提げている箱に気付くと、ぱっちりと目に光が戻る。

「帽子屋さんのドーナツだ! 僕の分もある?」

幼い子どもみたいに喜んでもらえて、僕は嬉しくなる。それに、父が食べたドーナツの分、お小遣いを足してくれるだろう。

「全部食べて良いよ、お父さん」

「えー、ダメ。コーヒーと和三盆は、お姉ちゃんの分です」

姉が頬を膨らませる。

 幸せなやり取り。けれど、僕の胸には棘が引っかかったままだ。手のひらを広げてみる。指先にはまだ、青い絵具の跡が残っていた。


幕間「水平線」


文・カオリ 絵・西平まどか


 「水平線は真っ直ぐじゃないよ」と言いながら、あなたはキャンバスを青と白の二色で塗り分けた。それから、私の世界は分かれ出した。


 雑多なおもちゃ箱の中身、学校のクラスメイト、あるいは野原。目の前にあるたくさんの物が二つに分けられることを知って、ジグザグな境界線を引き続けた。それで全てが上手く行った。


 「二元論は、乱暴な前時代的な考えである」と誰かが言い出して、実は多くの人がそう思っていたことが明らかになった。多くの境界線が、世界から失われた。


 それでもやっぱり、あなたの部屋の窓から見る景色は、海と空の二つに分かれたままだ。


 私とあなたの間には、歪んだ境界線が引かれたままだ。

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